ここで言う鞘とはたとえば手紙では『拝啓 お変わりございませんでしょうか』という時候挨拶、よその家に行ったとき、玄関口で丁寧な挨拶をする習慣、顔を合わせたらまず、形式的ではあっても『お変わりございませんか』という長年の習慣言葉のことである。鞘は『形式』の別名でもある。

言葉が武器であると思えば、その武器は鞘に納めてから語られると相手に危害を加えない。売り言葉に買い言葉は、どちらも『鞘』を外したまま言葉を発する行為にほかならない。2ちゃんねるはじめ匿名で毀誉褒貶の言葉を書く行為は、もう『鞘』はどこかにぶん投げて、鞘から出た鋭い剣のある言葉で相手を突き刺す。ブログ炎上も『鞘を捨てた言葉の戦場になっていて』礼儀も何もあったものではない状況だ。会ったこともない、話したこともない人からのののしりは、心身とも極度の疲労に追い込まれると炎上したことのある人は言う。1万や2万の匿名集団からの攻撃は毒を塗った吹き矢に当たり続けるようなもの。多数の人につながるメリットとデメリットがあって、また人間は『ジキル氏の面とハイド氏の面があるからいつどこで入れ替わるものやら』という認識だけは持っていたいものである。夜に書く手紙と昼に書く手紙が内容もトーンも全然違う、感情の入れ方が別人の様相を呈していることに気づいた人は多いはず。

理想的な言葉のやり取りは、初めは近況報告から入り、そして様々な話題へ、別れるときは次回の再開を期してサヨナラする。書けばあたりまえのことではあるが、鞘がないと『おい、生きてたか?』『何やってんだよ』といきなりこんな日本語を吐かれたら不快だろうと思う。相当親しい間柄でも(間柄だから)丁寧さは必要だ。夫婦間で『おい、こらっ』と夫が妻をなじると『何よ、その言い方!』とケンカ突入必至。最近、増えてる熟年離婚も永年積もり積もった沈殿していた怒りが爆発の結果が多い。犠牲はいつも子供だが別れた方が幸せに近づく場合もある。『鞘』を把持しながら何十年も結婚生活を続けるのは、しかし奇跡に近い。どちらかが(どちらも)我慢我慢だ。

話題変わって、政治において『鞘』は憲法であって、則を超えない言動が求められるが『2ちゃんねる』を真似したのか、暴走し続けている。暴走している列車に同乗している人は静止しているように見えるが外から見ると同じく暴走してる場合も多く困ったものである。言論のお手本CDでもつくれば、いまの時代に売れるかもしれない。経営者編、プレゼ編、政治家編、学生編。夫婦編も。とにかく身近に生きたお手本になる人間が一斉に消えたような気がする。知識ではなくて知性が匂う人。物知りではなく人を知っている人。総じて教養のある人が消えてしまった。

ところで『教養っていったい何?』と聞かれると筆者も実はわからないのだ。空気を読むより自分の価値観をドンと提示できる勇気のある人、権力に拍手、拍手の付和雷同をしない人。そんなとこだろうか。忘れていた、教養のある人は『いい顔をしている』。いい顔ってどんな顔?自分で探しましょう。親父だったりして。

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  1. 歯に衣を着せずとも言われる普段着の会話は余程親しい相手なら許されるのですが、親しさの境界線も微妙ですから気をつけたいものですね。中学時代に習った剣道でも、これから戦う相手や戦い終えた相手と対する時には必ず暗黙の礼儀として正座して、真剣ではなくサヤこそ有りませんが竹刀を右手に置いて両手を膝にしておじぎをしたものです。左に置けば直ぐにも刀を抜くことが出来るので、抜かない意思表示をする訳です。我々と今の人たちとは時代の違いはあるとは言え、礼を尽すことはお互いをリスペクトしている事にも繋がりますから『礼を尽くし、礼で終わる』事でお互いにいい顔での付き合いをしたいものですね。

    • 私がバイトを辞めたのは、元自衛隊OBの威張り癖と失礼な言葉の数々で切れて翌日、辞表出しました。チームでやる仕事なのでね。レスペクトどころか、排他的な男でした。相手との距離は大事ですね。そういうことをどうやって学ぶのかと思うのですが、人間関係の失敗から学んでいるんでしょうね。仲がいいと思ったら、ある日から口も利かれない関係にったことはありますね。SNSなら、簡単明瞭な言葉使いでケンカになることがありますね。顔と顔での会話がトラブル少ないと思いますが。

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