非宗教的な家庭の子のほうが他人へ優しい(!?)
古い資料だが、2015年12月12月8日の「ニューズウィーク」(60P)。6か国の子どもに30枚のステッカーを渡して、次に気に入った10枚を選ばせて、そのうち何枚かを他の子どもへ上げてもいいと伝える(ステッカーの内容は書かれていない)。その結果、信仰心の薄い家庭の子どもの方が多くのステッカーを他の子どもに譲ったと。
宗教的な家庭の子は「分かち合う気持ちがかなり少なかった」(シカゴ大学研究グループ)。大部分、キリスト教徒とイスラム教徒であった。5歳~12歳の子どもたちだからよりストレートに出るのかもしれない。子供の寛容さと利他性は、宗教的ではない家庭の方が育っている。宗教の戒律や規範ではなくて、理性と合理的な判断をまずしているかもしれない。
「神が見ているから」という「物語や霊的存在(神)に頼る思考」ではない。善と悪をはっきりさせ、曖昧な領域を残さないキリスト教者の行動も、毎日の暮らしの微妙で複雑な判断の指針には弱い。イスラム教徒も(コーラン)さらに純化されていたり、ユダヤ教とも日常生活のあれこれを細かく規定している(タルムード)。
それより現代人は、哲学や思想・歴史・政治など非宗教的な要素に道徳規範を求めるようになった(筆者:どうだろうか?)信仰心篤くたくさんの慈善事業・寄付行為をする人も多い。しかし、人間の行動は無意識のうちに普段の習慣に従うものだ。なので結論は「何を信じたかより、どんな習慣を身に着けているかの方がずっと重要だ」(社会学者ジョナサン・ヒル)
以下、筆者の意見
私も2児の親として40歳、37歳の子を世の中へ送り出したが、「ある信念をもとにしつけた記憶はない」。私自身、野放しで育ってるから、貧しくもなく富もせず、小官吏の倅。戦争体験話さず、寡黙な父であった。だから無意識のうちに身に着けた習慣って何だろうと思うと、どうもわからなくなる。体育会系のノリもなく、テキトーな生き方でテキトーな人とテキトーな仕事を探して、営業を長年するうちに他人の人生の苦しみや運や不運や突然の人生の中断や倒産や自殺や自己破産やリストラに見舞われる知人・友人も多く、たいしたことはできないが、相手の話くらいは聞く人間になった。他人を裁かなくなった。(妻はそのとばっちり、ストレスを自分は受けていると主張するが)
学生時代、16世紀「宗教戦争」の本を何冊か熟読して、勉強もひとりでしてきたので、「信念」「狂気」「弾劾」「声高な演説」「殉死」「旗を立てる」「魔女裁判」「異なる者を排斥する」「集団の熱狂」「〇〇のために命を捧げる」「〇〇はあなたをこう言っている」「貧しさは狂気を生みやすいし利用されやすい」「狂気の時代に寛容を守ることは尋常な勇気ではない」「鎧を取ればただの無力な裸」「性欲が満たされない男は狂気に赴きがち」。フロイトやE・フロムの影響もあるかも。
いまの世界でも通用する話だと思う。450年前の話だというのに。