1968年8月8日、日本初の心臓移植手術が道立札幌医科大学で行われた。私は17歳であった。新聞テレビは移植のニュースで溢れた。リーダーは胸部外科の和田寿郎教授。作家吉村昭は、8月9日、心臓移植を小説にするために札幌に入った。しかし、取材先は札医大ではなくてドナーの山口義政君(21歳)の周辺を調べ始めた。溺れた小樽市蘭島海岸、検視を行った札幌中央署、札医大に大量の輸血用血液を運んだ日赤血液センター、小樽市の救急病院、札幌まで山口君を運んだ小樽消防の職員、平岸にあった火葬場にまでこまめに取材した(下記著 182p~184p)。吉村は和田教授の説明と食い違いを発見してゆく。「神々の沈黙 心臓移植を追って」(文春文庫)「消えた鼓動」(筑摩書房)に結実した。「問題なのはあの人のやり方。なぜ隠そうとするのか。隠す原因は、行ったことが不明朗だったから」「マスコミは善か悪だった。最初はバンザイ、バンザイと和田さんを英雄扱いした後、一斉に反発した。…一度も現場を訪れたことがない評論家や法律家が便乗、マスコミはもっと冷静じゃなきゃ困る。失敗すると全部を叩こうとする。もう少し本質はどこにあるかを考えるべきだ」移植医療には前向きの吉村さんだったが、2回目の心臓移植が行われたのは29年後であった。脳死臨調が脳死の基準をもうけるため、喧々諤々の議論と法づくりに時間が経過したのである。

ネットで調べてみると、国内の臓器移植数の一覧が出てきたのでコピペしておきます。私事になるが20代に勤めていた会社の同僚に門脇さんという女性がいた。「兄(門脇裕)が心臓移植のチームにいました。亡くなりましたけど」31歳で胃がんで亡くなっていた。山口君の脳死について、判定の責任を押し付けられた人だ。死ぬほど悩んだろうと思う。そもそも機器で測定はしていないのだから。「凍れる心臓」は最初のページに心臓移植チームに所属した医師たちのその後がわかるようになっている。共同通信社会部も彼らを追いかけ、和田寿郎教授も取材されている。ここまで追跡して迫力のあるドキュメンタリーを読ませてもらった。心臓をもらった宮崎信夫君は恵庭の高校生だった。同年10月29日死亡。1968年は使途不明金34億円をめぐって当時の古田会頭の辞任を求める日大闘争や戦争指導者を多く輩出した旧帝国大学の解体を目指した全共闘の学生運動と重なっている。

1998年刊 共同通信社

臓器提供数/移植数|日本臓器移植ネットワーク (jotnw.or.jp)

移植件数(2023年)

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
心臓単独 10 9 10 17 9 6 4 11 7 10 93
心肺同時 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
肺単独 15 10 9 13 10 5 5 15 4 8 94
肝臓単独 13 5 9 14 6 6 4 11 6 8 82
肝腎同時 1 2 2 0 3 0 0 1 1 1 11
肝小腸同時 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1
膵臓単独 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 2
膵腎同時 4 2 4 5 0 1 3 5 1 2 27
腎臓単独 20 10 19 25 13 13 10 16 16 10 152
(※内、脳死下) 20 8 15 21 13 11 5 16 12 10 131
小腸 1 0 0 0 0 1 0 0 0 0 2
合計 64 38 53 74 42 32 26 60 36 39 464

注:情報のみについては含まない。摘出と移植の月が異なる場合は摘出月の移植件数とする。

  1. 脳死が無ければ臓器移植も出来なら、移植手術のタイミングは脳死待ちになるのでしょうか。それとも、脳死患者さんの臓器だけを生かしたまま保存できるのでしょうか。何れにしても困難な手術に違いはありませんね。心臓手術に限らず、臓器移植手術の先駆者は勇気がありますね。必ず成功確率が分かって居れば別ですが、自分自身を信じる以外誰にも頼れませんからね。結局、誰かが犠牲になってもやらなければ、今も無いわけです。亡くなられた患者さんには申し訳ないですが、もし施術をしなかった場合はと考えれば、難しい判断ですね。医者も成功すれば英雄視されますが、万が一失敗すれば殺人犯扱いされますから嫌な職種ですね。余程、強い心臓の持ち主でなければ務まりませんね。

    • 臓器ごとに保存できる時間が違います、なので臓器はネットワークで必要な病院へときにヘリコプターで運びます。どちらにしても死が前提の医療ですから、何をもって死とするのか結論が出ませんでした。脳波が平たんになれば死と考えていた人もいましたが、実は脳幹は生きているのです。死んでから24時間経過しないと荼毘に付されないのも、棺に入ってから生きて帰ってきたことがあったからです。今回の和田移植は、受ける側の宮崎さんに心臓移植をする必要がなかった、僧帽弁の置換で済んだと内科の主治医が言っているわけです。さらに山口君も生きていたという証拠が出てきたんですね。そこを吉村昭さんや共同通信記者が追いかけていたのです。白い巨塔に描かれた医者の世界の陰湿性、秘密主義が当時もいまも残っています。さらに激しい学閥主義です。市民が「あそこは●●系の医者、向こうは●●系」とはっきり言いますね。移植医療はサルやブタで始まってます。29年間で亡くなった心臓移植以外では助からないたくさんの人たちが無念の死を遂げたわけでね、複雑な気持ちになります。宮崎君の通夜に提供した山口君の父親が来ていました。平岸霊園で荼毘に付した後、今度は息子の心臓のお通夜です。やりきれなかったと思います。

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