パンセ139章 人間の不幸というものはただ一つ・・・・
ご存じパスカル「パンセ」の中で長い1章だ。サブタイトルは気を紛らわすこと。パスカルは39歳で激しい病の末亡くなった。死後に見つかった思索メモを「パンセ」として出版された。フランス文学者鹿島茂さんは、「NHK100分で名著」の中で、パンセ139章を何度も読むことを勧めていた。ここに人間の本性が見事に語られているというのだ。少し長くなるが出だしの4行を引用する、岩波文庫版92pだ。前田陽一訳。
気をまぎらわすこと
「人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生じるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えた時に、私がよく言ったことは、人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。」
毎日起きる事故や事件をゆっくり考えてみると、車で出かける、学校へ行く、会社へ行く、出さなくてもいいメールを出す、出なくてもいい議員に立候補する、しなくてもいいスポーツをする、レベルは違うけれど国を出る、銃を担いで戦地に赴く、他人へ命令するために所属する組織へ出向く、部屋の中に静かに休んでいれば結婚も必要がないかもしれない。極論かもしれないが、庭に生えてる雑草も根を張ったところから動かない。じっとしている。誰かが抜いても根は深くて時間がたてばまた生えてくるだろう。
先日、東京から来た知人に「パンセの139章に、人間の不幸の原因は一つと書かれてあったが、なんだと思う?」と問いかけてみた。「嫉妬」と即答してきた。大きな企業に勤めているので、日々、嫉妬の渦の中で仕事に出世競争の渦中にいるんだろうと推測した。「欲望」と言う人がいるかもしれない。しかし、
「生きるために十分な財産を持つ人なら、もし彼が自分の家に喜んでとどまっていられさえすれば、何も海や要塞の包囲戦に出かけて行きはしないだろう。軍職をあんなに高い金を払って買うのも、町にじっとしていられないというだけのことからである。社交や賭け事の気ばらしを求めるのも、自分の家に喜んでとどまっていられないというだけのことである。」
しかし、人間の本質は運動でもあるから、矛盾する。運動をせず静止すればそれは死であるから。肉体は食べ物を求めるし、外へ出て稼いでこなければ。
1670年に初版が出されたパンセ。パスカルはパリの社交界で人間観察もしていた。過剰なほどの運動やおしゃべりの喧騒な場である。そこからヒントをパスカルは得たのかもしれない。「部屋の中にじっと静かに休んでいれば」船で海外へ珍しい物産を求めて、命がけで航海をする必要もないし、他国と戦争をする必要もない。21世紀もこの点は17世紀と変わらないと思う。
ゼロ戦パイロットの弟。
戦争に行かなかった父のお蔭で偶然にも私が居る訳で、出かけていれば当人も亡くならないとも限らないので私などこの世に存在しなかったのかも知れません。当時は前線に行って帰還出来た人は幸運な方で、多くは返らぬ人として片づけられてしまったのです。しかも何の保証も無しに当然のように。私の場合、親子ほど歳の差の長男の兄は不幸にも自ら海軍航空隊に志願しました。学業中途退学までして、それも親にも内緒で。偶然にも終戦後暫くして復員し、我が家に現れた時に初めて顔を合わせた髭面の見知らぬオジサンが実は兄だったのです。『昭和戦国時代』が皆を狂わせてしまったのでしょう。冷静に考えれば、ロシアにせよアメリカにせよ大国相手に戦争を仕掛ける事自体が国のリーダー達は常人とは思えないですね。敗戦が時代を変えたと考えれば、戦いに挑んだ事が結果的には良かったのかも知れませんが、その陰で犠牲に成られた方々にとっては無謀な賭けでしたね。これも何かをやらなければジッとして居られない人間の性なのでしょう。今も世界各地で同じ事を繰り返して居ますが、各国のリーダー達も余計な欲を押さえてジッとしていて欲しいものですね。失敗例は数多く会う訳で、これらから学んでほしいものです。こう考えると、人間の不幸の原因は『欲』かも知れませんね。出世競争の果ても、恋愛の結果の失恋も、結婚した後の離婚も、倒産も、国土や勢力図の拡大など、すべて『欲』さえ抑えられたならば、起きない現象でしょうね。しかし果たして抑える事が出来る人はどれ程いるでしょうね。分け合う精神、譲り合う気持ち、お互いにリスペクトする事が不幸を無くす基本ですね。
seto
戦争から無事に帰還で来た人、できなかった人。偶然のなせることでしたね。帰還船に乗っても沈没した船が多かったです。帰還しても病に倒れた人、片足腕を失い、街角で金銭を入れる箱を持った兵士も見ました。石橋湛山が見直されていますが、「小日本主義」が基調で満州を返して、朝鮮も返して、台湾も返して小さな日本で、世界から尊敬される国づくりを目指しました。国会で横断的に「湛山勉強会」が開かれるようになりました。政党に関係なくて。ヨーロッパの限りない領土欲や資源欲、安い奴隷労働欲、現地への支配欲を石橋湛山は見えていたんでしょうね。戦争をすると殺人をするとされると100年以上はその傷はきえません。武器はいいから、弾・ミサイルに入れる化薬を南極でも全部捨ててきて欲しいですね。それと武器商人の摘発を国連が積極的にしないといけません。100年後、宇宙から見て「愚かな生物が地表に住んでいた」と思われるかもしれません。
アドマン。
しかし、ジッとして居ろと言われても多動性の私には到底ムリですね。毎日毎日出掛けなければ気がすみませんし、例え家でも手を休める事は稀です。一日でも家に居ろと言われれば寝転んでTVでも音楽でも読書でも、視たり聞いたり読んだりできる人が羨ましいです。かつてはのんびり屋だったはずなのに、いつからか?気ぜわしい人間になってしまいました。こうしている瞬間も、もう次の事を考えて動こうとしています。客先の若者たちの間では私を海遊魚の『ブリ』と噂しています。そして『あの人は既に高齢だから休んだら死ぬね』とも。動けば動くほど問題も累積して、動く事で忙しさも倍増しますが、それでも動きたがる多動癖患者の精神科医と、つける薬は無さそうです。が、動く事が妙薬かも知れませんね。
seto
私も多動症と言われました。とにかく落ち着きがない。たえず外へ出かけてうろついてくる。35年以上の飛び込み営業のくせですね。またバイトの仕事を探しているのでうろつくかもしれません。ベッドに腰かけて本を読む時間が増えてきました。いろんな言葉がかけずりまわります。古今東西、名言名著ありますからね。思い出したり忘れたりで遊んでいます。文明論の本は何度も何度も読み返します。どこか人類は間違った進化の道を歩いている気もしますね。下を向いてスマホをいじる姿は異常な生物としか思えないときあります。鳥や昆虫が健全ですよ。ある人がネアンデルタール人が現れてもこの程度の操作はすぐにできる大脳はあると書いてました。彼らにはさらに筋力と隣の人へのやさしさがあるかもしれません。どちらが文明人だかわかりません。
坊主の孫。
何もしないのは死んだも同然。とは言うものの、人は何かしらに興味を持つものですね。部屋に引きこもっていたとしても、お気に入りのキャラクター・フィギアの収集だったり、お気に入りのアニメのDVDだったり、イラストをコツコツと描いてみたり、と。何もしないのではなく、ジッとして居ても出来る事を探し当てる訳で、その道では右に出る人も少ない例も多いですから一概に何もしない人と決めつけられないでしょうね。ま、他の人達とは考え方が違うと思った方が正解かも知れません。この世に、何もしない人は果たして存在するのでしょうか?。そして何もしない事が、その結果幸せなのでしょうか。答えは人それぞれ幸せへの考え方も違うと言う事でしょうね。
seto
篠田桃紅さんのエセイを読んでました。103歳で書いた本です。署の天才ですね。我が道をひとりで歩いていく生き方でだれも真似はできませんが、そういう生き方と作品は必ず認める人が周りに出てくるものです。素晴らしい人には横に素晴らしい人がついてきますね。そして紹介・紹介の連鎖です。坂本龍一や忌野京志郎にもそういうところありますね。言いたいことを言い続ける、息苦しさからの脱出ですね。自分が幸せにならないと周りを幸せにできないですからね。