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ワールドカップはスポーツの戦争である

作家の深沢七郎(1914年~1987年)さんのような発言をする人がスポーツ紙や全国紙には書かれていないので、新鮮に読んだ。大きな声で言えないが、絶対少数ながらどこの国にでもいると思うのだ。

「スポーツの選手っていうのは、おだてられて、自分の身体に無理に無理して、自分の体力の限界以上のことをやっている。ひとつの犠牲者だと思うね。1位だ2位だって、権威っていうものにあこがれて、ほんとにひどい労働以上のことをしている。スポーツっていうのは、ほんとに悪いことだね」(深沢七郎 生きているのはひまつぶし 光文社117p)さらに、そういう意見をスポーツ新聞に書いたら載せてくれなかったとも書いてある。

今日の新聞・テレビはスポーツニュースはスキャンダル含めて看板番組。読者や視聴者も多く、おろそかにできないカテゴリーなので、この際もう一人、深沢さんとは違う視点でサッカーうるさい批判を書いた文筆家池田晶子(あきこ)さん(1960年~2007年 47歳 がんで死去)の文章を紹介する。

「サッカーはファッショである」と題されて「サッカー一色である。ミサイルが飛んでくるかもしれないというニュースより、サッカーのニュースが先にくる。4年前のワールドカップの時、どうか韓国で開催されますようにと、私は祈っていた。ところが仲良く半々でやるという。ああ困ったな、迷惑だなあ。住んでいる所が、国立競技場に近い。W杯でなくても、何がしかの試合をやっている時は大変である。なにしろあれだけの人数の観客がいっせいに集合離散、移動するのだから、犬の散歩に出られない。試合が始まったら始まったで、オーレオーレの大合唱に妙な応援歌、時折あがる悲鳴と怒号の大噴火に、窓を開けることができない。仕事中は耳栓である。そんなものが連日近所で国際規模で開催されれば、ふだんの暮らしがたちゆかなくなる。~~じっさい、W杯のとき、日本早く負けろと思っていた。静かな日常に戻りたかっただけである。~~日本VS韓国の大決戦で熱くなっている大観衆に向かい(日本負けろ)とでも叫んだら、どうなったか。たちまち私は非国民として、石もて追われただろう。ファッショである。」(池田晶子 知ることより考えること 新潮社90p)。

実はこれ、何も日本だけではなくて、W杯フランス大会でもカフェで静かに読書をしていた女性が池田さんと同じ発言をしている。前出の深沢七郎さんはさらに「札幌オリンピックっていうのは悪いことだ。スポーツって悪いことなのに、それに金をかけて2倍に悪いことだって言ったら、スポーツの人嫌がってね…」。ここにあるのは静かな日常生活を守るために非日常の出来事を侵入させたくない意思だ。いまは絶対少数になったけど、ほんとうはもっと数として声には出さないが多くいる気がする。

「サッカーも戦争も、自国の誇り(たまたまその国に生まれた属性に過ぎないこと)を賭けて争っている。現実の血が流れるよりはマシなだけで、スポーツは明らかに代理戦争である。代理戦争のガス抜き装置としてのスポーツ。昔から人間は賢くなってはいない」(同書 92p)

メディアは元スポーツ選手花盛りで、現役引退後、解説者・各競技評論家、監督やコーチ、講演会やスポーツ紙寄稿で生活費を稼いでいる。

私の身近に、若いときにスポーツ選手で、いま膝や腰を痛めて中年期を迎えてる人も多い。相撲はなぜあんなに肥満にして、成人病まっしぐらの見世物奴隷になるのか。普通の人があの体型をしていたら入院措置だ。ドクターストップされてもいいじゃないかと言うと妻に言ったら一笑に付された。神事では昔はあったが、今や米櫃を取り合う相撲OBたちの利権争いの具ではないか。プロ野球しかり。その道に進まなければ、平凡で幸せな人生行路だったかもしれない選手も多い。考えてみれば変な遊びをギリシャやローマ、イギリスが世界にプレゼントしたものである。

なかなかこういう視点でのスポーツ批判は最近では読めない文章なので長々と引用した。許されたい。

  1. ホランペッター。

    スポーツと言えば、小学校では夏休みなどに汽車に乗って兄の家に行くと、県の篭球会理事もやっていた兄に連れられ近くの学校の体育館でバスケットの練習を。中学では兄のお下がりの面や胴など道具を貰って剣道を。高校では卓球とスキーを。柔道も少しかじっていましたが、それらは試合で勝つのが目的では無く、剣道は礼儀作法。卓球は共通の仲間づくり。スキーは相当行きましたが結局は冬の唯一の遊びでした。どれも結果は競技主体ではなく普段の運動程度でしたね。運動部の練習にはランニングが付き物で必然的にマラソンも自然と身につきました。それより音楽部にも所属していて先輩が卒業した事で数少ない男性部員の中から私が部長にならざるを得ず、運動より音楽部でコーラスの指揮やら楽器演奏に充てる時間の方が多くなりましたから、その後は時間が有れば運動は遊びとして楽しみました。どれも中途半端でしたが、社会に出てから少しだけ役の立ったのは音楽でした。

    • 遊びとしてのスポーツを全面でやって欲しいだけなんですよ。私も卓球はロングが好きでカットしたりもしてました。競技の勝負け、体協が傘下に置くスポーツへどんどん変貌、日本体育協会が文科省から国税を引っ張り、スポーツメーマーがそれに相乗り、現在では森喜朗が人事権を持って五輪にまで権力を振るう、日本のスポーツ界に否を言ってるわけですね。協会に膨大な職員を養って、なんだろうこれっt?テレビ局が各競技スポーツ界と電通が間に挟まって放映権とCM各社、ほぼすべてのスポーつが全部ビジネスに変形されて、素朴なスポーツのはじめが忘れられていると思いますね。

  2. 娯楽としてのプロスポーツ観戦と、競技として競い合うアマチュアスポーツなど、スポーツにも色々ありますが、我々一般人にはどちらも参加できないので、代わりに戦う選手やチームをまるで自分の分身か?親戚か?知り合いかのようにファンとして入れ込み、狂ったように応援したり、ファンクラブに加入したりと熱心ですね。スポーツに限らずタレントの追っかけも同じで、特別なファンとして認めて貰う為に熱心に追っかけ続ける訳ですね。つまり現実逃避にスポーツ観戦やタレント追っかけをするのでしょう。当のご本人たちは大勢集まる事で連帯感が湧き、大騒ぎする事で、非日常を演出したグランドやステージを発散の場としているのでしょう。一方、スポーツ選手もタレントも、そんな熱心なファンを増やす為に活動して居る訳です。スポーツや芸能嫌いな方たちにとっては迷惑な大騒ぎの応援の歓声でしょうが、選手もタレントも歓声が多いほどやりがいが湧くのでしょう。エキサイティングな盛り上がりがピークになればなるほど、ファンの感情とは正反対に近隣の住民にとっては迷惑度もピークに達するでしょうね。これからの競技場やイベント会場は防音壁にするか、郊外の人家の無い場所が良いですね。北広島市のエスコンの様な。

    • 野球や競技場、サッカーもそうですが、作りはローマ時代のコロセウムそっくりですね。パンとサーカスの世界で変わりがありません。グラディエーターという映画がありましたが、興奮度において時代を超えてかわりません。ナナチス時代のルリン五輪のイメージが強烈に残っていて、アレルギーあるんですね。セレモニーも大嫌いなので私の特殊な性癖なのでしょう。

  3. 好き嫌いは誰にもあり、それが趣味だったり、生き方だったり、様々ですよね。皆んなが同じ趣味だったり、同じ生き方の必要は全くなく、それぞれ違って良いのでしょうが、また違うからと言って、自分と違う人を非難する必要も無いでしょうし、またするべきでも無いでしょうね。人それぞれ違って当然ですから、自分の意思で自身が歩んでいる道が正しいと思えばそのまま行けば良し、間違っていたと思えば正せば良いでしょう。いずれにしても極論で考えればキリが無く、多少アバウトなところも有って良いのではないかと思います。しかし近年のスポーツ界も確かにビジネス化され過ぎていて、裏の世界化も垣間見える今日ですから、戦う選手とは別のところで裏金問題が浮上したり、スポーツそのものより、汚れた黒い取引など別の話題の方がクローズアップされて居ます。これではスポーツ選手もファンも冷めて、健全であるべき選手やファンもどんどん居なくなってしまいますね。

    • 近所の人とテニスをしたり、バトモントンしたり、サッカーしたり、卓球練習したり、それで十分。あとは日常生活に戻ればいいわけです。ぶくぶく太らせる相撲が国技なんて信じられません。糖尿と短命の一直線ではないですが?不健康なスポーツで1場所4億円×5場所=20億円が相撲協会にNHKから支払われるわけです。懸賞金は1本3万×本数。桟敷席は買い占めです。ボクシングも鼻血を出して下手をすれば即死するこちょもあります、ケンカですよ。足を使えないサッカーはより」脚のケリが残酷です。ヘッヂングも危ない。もっと安全な楽しいことで時間を費やせばいいのではないですか?メダルなんて取らなくてもいいから楽しく動き回るスポオーツたいこくでしいですね、。

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