恵み野通信 訂正する力(1)
恵庭市内から岡本書店が5月に撤退して、市内にはコンビニの雑誌売り場しかなくなった。千歳市にイオンの二階に雑誌とベストセラー本中心の小さな書籍があった。新書と文庫の狭いコーナーになんと、私の大好きな東浩紀さんの「訂正する力」(朝日新書)が4冊も積んでいた。よくこの狭いところに並べたもんだ。ユーチューブゲンロンカフェで姿を見ていたが、苦悩と喜びに満ちた発言にいつも感動をしていた。2冊買って、1冊を図書館に寄贈しようと思ったが、貧乏な私は読んでから寄贈することにした。真正面から、いまの日本を論じています。謝る文化、訂正する文化、間違いましたと素直に言葉に出す人の少なさ。訂正し続けることは、言論の基本で、文化の持続につながり、他人の話を聞き、意見を変えるチャンスを「原理主義や」「討論の勝ち負け」にこだわるあまり、議論が深まらない弊害が続いている。日本の政治を見ると明らか。イギリス議会を見ると、言いたいことを言う議員のフランクな姿に、江戸時代の長屋のほうが人々の自由な言論の冗談や皮肉を交えたころに似ているかもと思った次第だ。そして、最後は長屋の物知りの長老が出てきて、話をうまくまとめる。老人が尊敬されてもいたんだ。当時は平均寿命が短いから長老といっても80や90でなないだろう。40歳になればもう隠居も考え、どうやってあとは遊んで暮らすか、文化に貢献する年齢だ。
この本の中で、膝を叩いたところがある。それは「一貫性」や「ぶれない」という価値観や「ルールで縛りあう」生き方を変更しないかと言う提案でもある。
「平和とは政治が欠如していること」(同著220p)、穏やかな家庭のころを振り返ると確かに、政治の政治性、敵や味方の価値が消えて、平和につながっていることを思い出す。いつのまにかどこにでも敵味方や論破する、ディベードする風潮が広がってきた。そこに欠けるのは権力の発動や観念だ。埼玉からくる友人と居酒屋でおしゃべりすると、あっという間に3時間は経過している。学生時代、読書会をしていたときのいまは亡き顧問の先生、スマホを勧められたのも彼からだ。孫の写真見るのにいいと。彼は新刊書を膨大に買うのでその紹介もあるし、現代メディアの中立性の無さ。ヨーロッパの旅の話も出てくる。
『平和とは政治が欠如していること」なら、人間はそもそも『平和を望んでいないのかもしれない」とも思える。非運動系の私なので、勝ち負けや数字や国の威信とお金と企業の広告塔で短い人生を運動する人たちの気持ちがわかりにくい。なぜ、もっと楽をしないのか?戦おうとするのか?
『訂正する力」は主題が多岐にわたるので、再度、テーマを変えて書いていきたい。