『日本の買いものには会話がないと思う』(池澤夏樹)
フランスに5年滞在して、日本に帰り、『ありがたいのはサービス業の充実。・・コンビニもすごい。その一方、日本の買い物には会話がない。フランスだったらどんな店でも互いの顔を見て(こんにちは)と言うところから始まる。比べると日本はまるでロボットの国のようだ』。(池澤夏樹 終わりと始まり 42p)コンビニでも最近はおばさんが多く、よく会話をする筆者ではあるが、町中のコンビニでは客が列をなしているときに、素早く金を払い立ち去るマナーがあるようである。
池澤さんは、『こんにちはがない代わりに、この国ではふつうの市民=国民の頭上にたくさんのメッセージが降りかかる』。あれをしろ、これをしてはだめだと。電車に乗れば『足元にお気をつけください。黄色の線の内側まで下がってお待ちください』エレベーターでは『お子様の手を引いて』雨の日でも電車に乗ると『雨の日は傘の忘れ物が多いので、注意してお降りください』、町中、指導や注意やバカ親切の騒音に悩まされる。
カント学者の中島義道さんが余りの街頭放送や私鉄の車内放送に『うるさい日本の私』を書いた。いつのまにか私たちはこういうメッセージは親切で当たり前と思っているが、『騒音』『余計なお世話』『言葉の暴力』『私に干渉してくるな』と思う人も私含めて多いのである。気配りと親切心で語られるから『反論するのが難しい』が、どこかこういう発言は『官が民を指導する』体裁である。市町村や警察や役所が作るポスターもほとんど『啓蒙』をメーンにしたコピーで溢れている。
どこか官は民を見下して、信用していない。市民や国民は啓蒙する対象であるという順序である。そう考えると、ほとんど明治時代から何もこの国は変わっていない気もするのである。そうしてそのアナウンスのコピーには顔がない(作者名がいない。組織しかない)。法律のようだ。
街頭放送、デパート、駅、飛行場、商店街、交番のポスター、公園の立て看板、交差点。『怪しい人がいたら交番へ通報』などのポスター見たら政治家全員、交番へ通知したくなる。いまなら霞が関の官僚や警視庁の官僚たちも不正な伝票操作をして裏金つくりを続けているかもしれないから通報ものである。『調べて欲しい』と。調べる官僚たちが不正をしているのだから、信用のおけないのは官の方で、降り注ぐ言葉は全部、官へお返ししたいと思うこのごろである。各家庭で親から最初に教えられる『他人のものを盗むな』『嘘は泥棒のはじまり』というポスターを霞が関と国会議事堂に1億枚印刷して貼りたいものである。
民から官へ言葉を逆流させないと大変な国になってしまう。
アドマン。
高齢化社会ですから、何でも新しいシステムに変えてしまうのには問題がありますね。スーパーでは自動レジと通常レジを併設してはいますが、少なくても半分は対面レジや対面販売を残した方が良いですね。売り場も同じで、ただ商品を並べるだけでなく、説明員兼販売員が一人でもいれば助かりますね。商品に対する質問などもできて少なくとも対話によって商品への理解も深まりますね。若い人達は一般的に会話を嫌う傾向にありますが、高齢者は普段の暮らしで対話の機会が少ないので、絶えず会話を求めています。求めている事が叶えば来店機会も増える訳ですから、ビジネス面からも、便利すぎる社会を今一度考え直す時かも知れませんね。
seto
レジ係の主婦はおばあちゃんやおじいtぃやんの心を知っていて、会話をしていますね。私も冗談を言って笑ってもらうように気を使っています。っ通じないときは『変な人!」って感じ。会話を求めることは生きて入れ、生き続ける基礎ですからね。そこから病気の兆候を発見して命拾いする人もいるわけですから。日本語は社会の財産ですから、会話しないとは『社会が消えてる』ともいえますね。俺が、俺が、私が私が、の世界です。会話は『間)ですからキャッチボール。やりとりではなく、決定的な日本語が好きなんでしょう。『死ね、うるさい、バカ、シツコインダヨ』だらだらハスことから出るヒントには宝の言葉がたくさんあります。『あっ、そういう見方や考え方もあるんだ)とか。