宇佐海軍航空隊を訪ねた(大分県)2023年
1939年10月、艦上爆撃機・艦上攻撃機の訓練を目的に宇佐市に作られた宇佐海軍航空隊。練習後は実践部隊に配属され、真珠湾攻撃にも参加している。1945年2月には、神風特別攻撃隊の中継基地になり、多くの航空機も宇佐に集合、154名が特攻出撃、戦死している。全員の氏名が刻まれた碑があって、戦死者の中に4人の北海道出身者がいたので撮影してきた。石見文男、石田力雄、高橋●男、大野幸成。一人一人に家族のドラマがある。ドキュメンタリー作家なら戦死者の家族係累を追いかけて戸籍を探して、インタビューするかもしれない。
宇佐海軍航空隊跡地には,碑のほかに爆撃機の格納庫がある。今でも農家が農機具を保管するところで使用している。小中学生が折った鶴が下げられてある。折り鶴は丁寧に管理されている。
宇佐の平和資料館には、ゼロ戦や人間爆弾(桜花)の実物も展示されていた。
ゼロ戦パイロットの弟。
霞ケ浦の予科練の募集には多くの若者たちが志願したと聞いています。応募者全員が採用されたわけでは無いようですが、訓練が厳しかったため、スポーツを得意としていた、心身ともに健康な者が選ばれたようです。兄は豊島師範で得意のバスケットボールの選手で成績も優秀だったようですが、将来の教師の夢を捨て、両親にも内緒で中退し志願したそうです。兄から聞いた話では、10mほどの飛び込み台から海面に飛び込むらしいのですが、臆病な者には教官が背後から蹴落とすとか言っていました。幸いにも兄は遠泳も飛び込みも得意で助かったそうです。飛行機の操縦は最初二枚翼機から始め、ゼロ戦に搭乗するまでに、かなり厳しい訓練を経て海軍飛行兵になったようです。父母は息子とは面会も禁じられ、初めて会ったのは、海軍の靖国参拝の時にチラっと横目に両親に視線を送っただけだったそうです。それっきり帰らず、終戦を迎えて生還した時に、幼い私も、父から聞いて初めて兄と知りましたが、軍隊上がりの形相は怖かった印象がありました。或る日、生き残りの海軍飛行兵たちが札幌は円山の桜の下に集い石焼ジンギスカンを食べたと言って居ました。ジンギスカンを食べたいのでマトンの肉を買って来いと言われ、高校生の時の私は福井市内の肉屋を数軒回って探して、兄と一緒に食べました。ジンギスカンは初めてでしたが、何かの縁で私が札幌に移住して、日常にジンギスカンを食べようとは夢にも思いませんでした。ジンギスカンを食べるにつけ、今は亡き兄を思い出しています。
seto
お兄さん、そうだったんだ。実は特攻の本を読んでいて、特攻に出る前日の様子を書いた本に夜に部屋の中で特攻兵が集まり、目を開けて12時くらいまで起きていて、そのまわりを一般兵が彼らが眠るまで、見守っていた話を書いてました。特攻兵が目をつむるといろんな雑念が浮かんで気が狂いそうになるということでした。それを毎日、繰り返していた。送り出した側は,母艦をやって成功だと、ビールを飲んで祝勝会をしていたと。特攻には必ず、確認と警護のための飛行機を並走させるので帰ってきた飛行士は祝勝会を見て具合が悪くなったそうです。美談で語ってはいけない世界です。
saito
義父のことを書きます。現在、97歳です。何と、雨の神宮外苑「学徒出陣」で有名な写真に載っているとの事。
あの永遠のゼロの世代の2~3年後輩の訓練生であり、飛行訓練時間が270時間もあったということ。
岩国にあった海軍基地が米軍により破壊されたため乗る飛行機がなくなり、終戦をむかえたたとのこと。
米軍の改良グラマンは、性能がよく、高度1万メートルまで上がれるが日本のゼロ戦は、8千メートルまてで、
上からねらわれたとの事。当時の軍事教育、社会風潮などにより、「命は国にささげたもの
であり、死ぬのは怖くなかった」といってました。永遠のゼロを見てあの通りだと言ってました。
「特攻に乗るもの前に出ろ」と言われたとき、前にでるのが当たり前。しかし、長男は、後回しにされたそうです。
特攻機の護衛をすることになります。グラマンとの空中戦も何度も経験し命拾いをしたそうです。
東京出身で、戦後食べ物を求め北海道にきて山の中で生活して挫折し、警官になり最後地方の警察署長になりました。
元気な義父でしたが、骨髄異形成症候群という難病になり、入退院を繰り返し、あとどのくらいの命かわかりません。
札幌市白石区もみじ台で一人でひとりで暮らしています。
seto
先日、9回の特攻で9回とも無事に帰還した兵士について書いた鴻上尚冶さんの本を読みましたが、特攻を護衛するというか伴走する飛行機に乗った人の文章がありました。特攻で体当たりして亡くなると士官の官舎で戦果をビールで祝う会が開かれたそうです。義父さんと同じように特攻機を護衛をした角田和男さん『修羅の翼』に特攻の前日の夜が書かれています。『宿舎の中は電灯もなく、缶詰の空き缶に廃油を灯したのが3・4個置かれていた。薄暗い部屋の正面にポツント10人ばかりが飛行服のままあぐらをかいている。そして無表情のままじろっとこちらを見つめた眼がギラギラ異様に輝き、ふと鬼気迫る』部屋の奥にさらに十数人の普通の搭乗員がいた。角田さんは『どうしたんだ、きょう俺たちと一緒に行った搭乗員(特攻)は皆明るく喜び勇んでいったように見えあたんだが』『そうなんです。ですが、彼らも昨夜はやはりこうしていました。目をつむるのが怖いんだそうです。色々と雑念が出てきて、それで眠くなるまでああして起きているんのです。毎晩12時には寝ますので、一般搭乗員も遠慮して彼らが寝るまでは、ああしてみな起きて待っているんです。しかし、こんな姿は士官には見せたくない、特に飛行長には、絶対にみんな喜んで死んでいく、と信じていてもらいたいのです。だから、朝起きて飛行場に行くときは、みんな明るく朗らかになりますよ。今日の特攻隊員と少しも変わらない』 喜々とした笑顔、悠々たる態度、あれらが作られたものかもしれない。(特攻の実像)