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ソクラテス(BC469~BC399)40歳の生涯

20年以上前かな、これまで総務からのお知らせは机の上に紙が置かれて社員へ通知されていた。それがある日、ネットワークが引かれて、お知らせがメールになった。文を書く人の品性や読み手の社員への細かい配慮があればいいが、どこか一方的な文章、権力性を感じる文章に腹を立てていた期間が長かった。ストレスを感じ続けた。つくづく私は組織に向かない人間だなと思っていた。

すべて主語は「会社」。こういう主語は実はなくて、会社の社長〇〇の一存でとか、〇〇常務の反対はあったがとか、正確に記してもらいたいと抗議したい気持ちが続いた。数十人の会社なので全員の顔が見えるのに、仕組みだけは大会社の猿真似をしていたのだ。全部、発信者の責任が回避できるよう、そして十分、その権力性を社員に浸透させる文書の多さに辟易していた。またこういう文章のお手本のビジネス書も溢れていた。しかも、営業が売り上げを上げるべく走り回ってるのに、何度も書き直しているのを見てつくづくお暇なのねと皮肉も言いたくなる。

しかし、それが今度は自分が部下を持って「いついつまでに〇月の売上予定数字と利益を私宛にメールで送るように」と指示メールを出すことになった。すると不思議なことに、「それは、私の立場上、当たり前の営み」だと感じるようになった。習慣というものは恐ろしくて、出す側は普通の文書であっても、受け取る側から見れば強迫に感じたり、脅しに感じたり、イジメに感じたり、バカにされてるように感じる。「書いた文字は人をだますぞ、大事なのは対話なんだ」(ソクラテス)そういえば、ソクラテスも仏陀も孔子もイエスキリストも全員、書き文字は残していないね。なぜだろうね?

法律も実はそういうところがあって、いつのまにか〇〇月よりかくかくしかじかの法が施行されたと。年金は下がった、介護保険は上がった、支給年齢は上がった、「新しくこういう法律ができた。こういう組織ができた」。新しい組織ができると天下り先を増やし、細かい法律を作れば作るほど、素人や一般国民が理解できない世界に入り愉悦する官僚たち(バカな国民めと思ってる官僚も多い)。あるとき、農学博士の農水省の知人にメールを入れたら、1行ごとに、その下に赤文字で添削されてきて、普通の手紙メールなのに本人は悪意はないとは思うが意地悪さを感じた事件でそれ以来メール頻度が超激減したのはいうまでもない。役所での部下からのメールと勘違いしているのだ。

  1. もう、3~40年近くも経つでしょうか?私が長年関わる事になった或る有名国産自動車メーカーの銀座本社内では○○課長とか○○部長とか役職名を付けずに○○さんと呼ぶように義務付けました。当時は斬新だと感心もしましたが、いつしか、上層部が入れ替わると途端に元に戻って居ました。社是にでも明記して毎朝の朝礼に全員唱和でも続けない限り、良い慣例でさえ自然消滅してしまいますね。言葉の無い社内圧力はジワリと力を感じさせ、社内全体を淘汰してしまいますね。役職と言うものは個人にとってはステイタスに感じるものですが、レールから外された社員にはうっとおしいものですね。それも上層部のさじ加減で決定される事が殆どですから尚更です。こんな事もありました。労働組合で会社相手に戦っていた組合長は多分ウルサイと言う理由で北海道支店長に据えられました。私はそのタイミングで採用されたのですが、着任中の数年間は見事に好き勝手に遊び放題で『飲む!撃つ(ゴルフ)』でしたね。今思えば緩いいい時代?でしたね。

    • 役職で呼ばない習慣の企業に私は27年いました。名刺には書いてはありますが。全員、さんで呼びます。社長もさんです。役職で呼ぶと怒る人がいたくらいです。平社員でもいい給与の会社だからできたことだといまなら思います。課長時代に次長を飛ばして部長職になったときは、さすがに断りしました。心臓病で退院したばかりで、毎日飲み会の部署へは拒否でした。広告から販売への異動は無理でした。ずっと広告で楽しい人間関係をつくれてよかったですね。

  2. メ―ルは時間が無い状況では面倒なものですね。ですが、だからと言っておろそかにはできませんね。文面によっては誤解を招いたり、勘違いされたり、極端な場合激怒されたりさえしかねません。ですから、取引業者さん宛でも得意先さんにでも、同じように丁寧な文面が間違いないですね。どんなに慌ただしい状況でも丁寧なメ―ルを心掛ければ、決して悪い事は無いですね。例え、自分が腹立たしい事案だったとしても、気持ちを抑えて冷静になって、いつも通りの文面のメ―ルにしたいものですね。

    • 朝から雨です。涼しいので玄関を開け放して、風を入れています。失礼なく短く品よく的確な日本語で要点を書く練習は若いときからするといいですね。電話するとき、あらかじめ『今電話してよろしいか』と断る人もいます。生き延びるために必要なことのなかに丁寧であることがあります。近所付き合いでもお店での買い物でも嫌いな役所とのやりとりでも、自宅前を通る小学生へも丁寧さは大事だと思いますね。棺桶に入るときも足をバタバタさせたり、まだ口パクをしておしゃべりしないよう静かな最後を迎えたく思います。

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