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『不良老人のススメ』~老いてますます(悦楽)に生きる~関頑亭著 講談社より。2000年、著者81歳のときに書かれた本。自由自在に生きる彫刻家関頑亭さん。彼の人生論です。

乞食の経験もあり、あらゆる角度から人間を観察して、世間の常識や規範、世間の目を気にせず、自由自在に生きる人。来世などをあてにする人生を笑い、いま・ここで楽しむ。年齢に関係なく女性をくどくこともする。『飄々として生きています。不良老人は風の如しです。なにも制約するものがない。マナーはそれを守るのが楽しいから守る。・・・生きる上での悟りは、山奥にではなく市井(しせい)に、それも人々が集まるようなところにあると思うに至った・・』(58p)

表題の来世について、『あまり来世、来世と言うと、生きることから逃避して、まだ見ぬ来世によりかかりたくなる』。天国も地獄もここにあるではないかと言う。しかし、人間は辛い現実があると、未来に理屈をつけて極楽があるとか考えたがる。仏像にもそういう面が現れる。『こうあらねばならないという理屈が入ってくるんです。僕には室町の仏像は硬直化しているように見えますが、それは死が蔓延していた状況と(こうあらねばならない)という理屈が入り混じっているからだ』彫刻家関頑亭さんは仏像をみて硬直化している仏像と自由な仏像と識別できる。

来世がこの世に入ってきている分、この世で根をはやして生きていこうという根っこが見えないようになっている。そこにくぐもった美はあるかもしれないが、作られた美ではないか。太古の時代にも人間の死は周りに溢れていた。しかし、それは『生→死』で『死→生』というベクトルではない。『生→死』のベクトルで作られた仏像は奈良・平安の仏像で命がみなぎっているというのだ。鎌倉になると甲冑を着た強さになって、命そのものが弱くなっている。表面的な強さだけ。金剛力士像のように筋肉を隆々つけているだけだと喝破する。悠然とした命そのものの強さと遠く離れている。

この本は、あらゆる局面で著者が生の横溢、古代人にあった生命のたくましさを理想として、友人の選び方、加齢とともに物を捨てる術、毎日を旅として(自宅を出ることも大きな旅と考える)新しい人と会話や冗談を交えて新鮮な一日を過ごす、一所にとどまらず気が向けば、酒場や旅先で人間の匂いのする宿に泊まる。モノはできるだけ少なくして生きる。モノは人間に配慮や場所を要求してくるからやっかいな物である。モノがあるとモノに威張られるから注意しよう。車にしたって、ガソリンや車検、税金、道路の整備、運転手の免許書更新までさまざまに要求して持ち主を困らせる。なければないに越したことはない。肩書き・権威・威張りも生命の硬直化の始まりと喝破する。自由に生きる、自由に考える、自由に話す・・・存外難しいものだと考えた本であった。

 

  1. 老人は皆、真面目人間。と思いがちですが、違いますね。歳をとると皆んな多くを語りませんが、本当の事を言えば『他人には言えない』事ばかりと言うのが本音だと思いますね。聖人君子で一生を終える人などいれば、それは『人でなし』つまり『神』でしょうね。自分に置き換えれば、それはそれは、隠し事だらけですし、またそれを楽しんでいる部分でもある訳で、相田みつおでも無いですが『人間だもの』の一言ですね。

    • お手本になるような老人は身近にいます。あり余っってるお金で寄附行為を続けている人です。市や各種福祉団体へ、自分t関わる企業や働く人へ通販で買った果物やお菓子を分け与えて、喜びを見出している人です。こんな人はめったにいません。4私は町内の宝人と言ってます。88歳です。徒然草で吉田兼好、友としてよき人、ものくれる人でした。そういう老人に私もなりたい。

  2. 不良老人は、意外にも自分自身を不良とは思って居ないのかも知れません。自分は真面目人間だと自己評価して居るものの、他人の目からは変人の不良老人と思われている可能性もありますね。自己評価基準と他人からの評価基準では大きな差がありますからね。自分の常識は他人の非常識と言う事かも知れませんね。取り巻く環境の違いで性格も行動も自ずと変化しますから一人として性格や生き方が全く同じ人間など存在しませんね。しかも歳を取れば取るほどその差は大きく顕著に表れますね。不良の種類やその度合いにも色々ですから、一言で不良と言っても言い切れませんが、若い時に不良で、今は真面目人間は歓迎されますが、老いて益々不良となれば手が付けられませんね。でも、亡くなってしまえば、どんな人でも『あの人はいい人だったね・・・』と言われますね。そう考えると、人間だれしも、根っからの悪人はいないのでしょうね。

    • 評価は他人が、第三者が、社会がすることで自分でするものではありませんね。そのギャップから鬱が生じます。本当にすごい人は、自分の評価は他人任せで、自分の仕事に邁進します。老人の話になりますが、若い人を助ける老人になりたいですね。ボランティアをしていますが、若い図書館司書さんが重い本を動かしてくれて感謝です。年寄りの多いグループなので助けてくれるわけです。いまここで何ができるか、してあげられるかです。ユニセフからガザの子供たちへ寄附を願うパンフきました。義理の姉がたまたま遊びに来ていて、「そのパンフもらっていい、寄付する」と帰っていきました。憐憫の情は誰にもありますね。私の妻は中村哲さんのベシャワール会へわずかながら振り込んでいます。

  3. 来世はないでしょうね。脳も活動を辞めれば記憶や思考も無くなる訳で、只の個体になるはずですから。ましてや焼却などすれば生きる為の機能を司る脳も心臓も血液も細胞も燃えて無くなり、それらすら残りませんからね。残るのは灰と僅かな骨くらいですから来世どころではありませんね。ただ、生きて居る内にやり残した事など有れば、それが心残りで、もう少しでも長生きできれば、やり遂げれるのではとの願望が、来世と言う幻を信じたくなるのでしょうね。どうせ来世に生まれ変われるとしたなら、死を待たずに、人生を変えたいときに来世にシフト・チェンジしたいものですね。しかも、何度でもチェンジ可能なら、軌道修正しながら、きっと充実した生き方が出来るのでしょうね。

    • 信仰でもないと来生はないですね。立花隆があれだけ脳の研究、臨死した人の生還を取材して、出た結論。来世はない。墓をつくるなでした。晩年、よく読んでいたのがキケロ「老年について」でした。キリスト教がヨーロッパを汚染する前の書物はいいですよ。ギリシャもね、中国の孔子や老子、仏陀ですね。万物に神が宿り、生きとし生ける物が支え合っている、見える世界も単一ではない。自然の一部が人間なんだという認識に帰らないといけません。

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