変更できない考えは悪い考えだ
モンテーニュ「随想録」(1580年刊)第二巻第一章 我々の行為の不定なことについて p217
ある人間を観察し続けていると、その行為に一貫性がない、矛盾ばかりがあって、まとめようがないことがある(ほとんどの人がそうだとモンテーニュは様々な用例を引く)。ローマのネロ皇帝が、死刑囚の判決文にサインを求められたとき「ああ、字を書くことを知らなければよかった」と一人の人間を死刑にすることに心を痛めた。残忍のネロと同一人物なんだが、モンテーニュはこれがほとんどの人の常態だと言う。ネットやテレビやブログで首尾一貫した人を祭り上げたり、見下したりする習慣が目立つのだが、英雄や法王を含めて庶民まで「人間の行為は不定」ですよと16世紀のユマニストは言う。ある人の行為を部分部分を足して、そしてこういう人だと決められない矛盾がある。どんどん人の認識を変えていく、付け加えたり引き算をしていく生き方の推奨だ。シンプル思考が流行る時代に面倒なことだが、ああいう悪い面もあればこういう良い面もある。どちらもその人だということだ。デジタル(0と1)志向になると二項対立思考になりやすいから気をつけたい。
「私が自分についていろいろに語るのは、自分にはあらゆる矛盾が見いだされる。内気で図々しく、貞潔で淫蕩、饒舌で無口、強靭で過敏、利発で愚鈍、陰気で陽気、嘘つきで正直、博識で無知、鷹揚で吝嗇で浪費家、これらのすべてを私はいくらかずつ、自分の中に向きを変えるにつれて見出すのである」p224
坊主の孫。
良きも悪しきも、人は見かけによらず。ですね。二面性どころか?多面性が本心でしょうね。決めつけられないのが人間ですが、一般手に二は通常見せる表向きの顔をその性格と位置付けるのでしょう。人には言えない事も、誰にも話せない事も出来るのもにんげんですから、一つの本心など有り得ませんね。百面相みたいなものが人間の顔でしょうね。
seto
いいことならどんどん変える。ブレナイのは決していいことではない。ぶれ続けて生きるのが現実ですね。何が飛び出すかわからないのが、ホモサピエンンス。大脳のセイでしょうかね。ブッダもイエスキリストもマホメットもおしゃべりはしたが、書き言葉を残さなかったのは、いったん書かれると、それに拘泥されて、次の変化へ移行できないからだったかもしれません。行動まで縛り付けられて、自由を失いますから。夫婦でも「あなた、10年前、こういうことを言ったでしょう!」とか「これを今後しませんと誓約書あります」とほじくり返されますね。どんどん訂正していきましょう。