全てを批判せずにはいられない人
私も10代末から20代後半まで、何を見ても聞いても気に食わず、文句ばかり言っていたときがあるからエラソウナことは言えない。社会批判、政治批判をするのは当たり前の学生であった。長髪で清潔感のない、市営地下鉄には下駄を履いて乗車、電車に乗ればボックス席では向かいの席へ足を投げ出して顰蹙を買っていた。私の学生時代を知っているいまの妻がそう言うのだから間違いはない。生意気にもほどがあると怒っていた。もう死んでしまったが、育てた親の顔が見たいと。それでも、目の前の人間に向かって批判するわけで、当然、反動が自分に帰ってくる。それを全身で受け止めるか、さらに反論するか、ひとえに自分の度量と自信と知識量と語彙の豊かさにかかっているが、大半、私は敗北だ。その悔しさが読書へ私を向かわせていった原動力だ。
しかし、それから40年が経過して、インターネットやメールによるオンライン上での「特に深い理由もなく」何でも嫌う人たちが増えている記事を読んだ。なぜ、オンライン上で「HATER」(ヘイター)に変貌するのかという分析だ。ふだん会っているときは、そんなそぶりを見せないのに、ネット上になると言葉がきつく批判的になる現象は誰しも経験していることかもしれない。
会ったこともなく、知らない人ならまだ無視できるが(しかし今は被害者宅への誹謗中傷が驚くほど多く、心身のダメージを倍加させている)、普段知ってる人からのケチをつけられる発言は書いてる本人からすると心身にあまり良くない。特に私は心筋梗塞経験者なので心臓に悪い。ドキドキする。ふだん穏やかな人がハンドルを持つと「おい、こら、どこをみて走ってる?このバカ者、さっさとウィンカーを出せ、ドンくさい運転手!」。助手席で聞く私はびっくりだ。180度、彼への認識が変わってしまう。この人は気をつけないと豹変すると。
この豹変はアルコール中毒患者の性格変貌に似ている。アルコール入り・ハンドル握り・言葉や観念を聞いて、どこかのスイッチがONになり、爆発する。なんだろう?私の学生時代の言動が結局、全部自分に跳ね返ってきたように、ヘイトスピーチや相手への否定的な発言はいずれ全部自分に帰ってくるのだと思いたい。それでもいいというなら何をかいわんやである。
「みずからが社会的に注目され快感を覚えることと、周りへの嫉妬を覚えることとの間には、原則としてトレードオフ≪何かを達成するために別な何かを犠牲にする≫の関係があると考えられる」(ウェブ人間退化論 正高信男108p)この原則からいくと、何でも批判するということは、絶対に守る自分を偏愛している可能性があると分析できる。こういう人たちは何を肯定して生きているのだろうかと考えると、自分だけの生、自分だけのプライド、自分だけが知っている知識、それ以上に楽しく生きている人々への羨望ではないのかと今なら思う。他者から肯定されなかった自分である。特に小学校や中学でいま猛威を奮っていると思う。
どうか日々を穏やかに暮らして、隣近所に、会社の同僚に自分をさらして生きれるようにすれば少しは改善されるかもしれないね。しかし、この病は重い。電車の中で、気持ちのいい会話(他人に聞こえても嫌味のない会話)を聞くことが少なくなった。
ある研究者がメールを一日何回するかでその人のボキャブラリー度を調べたら(18歳~22歳)、一日15通以上のメールを送る人の語彙数は平均2万5600語、5通しか送らない人は2万9000語。メールをたくさん使う人は語彙数が少ないという結果に。これからの予想では生まれてこの方、携帯文化で育つと日本語の語彙は貧困化することは免れないという予想だ。(ウェブ人間退化論 正高信男 162p)
すべてを批判せずにはいられない人は、たぶん語彙の貧困と感情の貧困、他者から肯定された人生を歩んでこれなかったのかもしれない。本人の責任のないことで差別や卑屈さを身に着けてしまった場合、どうするのか?ヘイターに向かうか、向かわないか。その差はどこから出てくるのだろう?
昨日の匿名と実名の話題に似てきた。最近、気になるテーマなんだね。
坊主の孫。
例えば、会社や学校など組織の中で対等な立場同士の批判や誹謗中傷なら喧嘩に成るかも知れませんが、立場が違う上司や教師からの罵声や陰険ないじめには中々立ち向かえずに鬱から欠席や欠勤や退社、挙句の果てには自殺にさえ追い込む事もありますから特に言葉づかいには要注意ですね。しかし、どうせ欠席や欠勤や退社はもとより自殺まで思い込むくらいなら、ここいらで一生一度の啖呵でも切って見たらどうでしょうね。スッキリして将来が明るくなりますよ。それに意外にも反論など無いと思いますね。何故なら他人を攻撃する人には防御の経験は少ないからです。権力を借りて傲慢に成っているだけで大したことは有りません。反論など決して無いと思い込み、安心して攻撃して来る訳で、そんな時に、思いがけない攻撃を受ければ防御の為の反論も出ません。むしろ、鳩に豆鉄砲状態ですね。最後に捨て台詞「あんた!いい死に方しないよ!」です。
seto
坊主の孫さん、頼もしい反論経験者ですね。民間以外知らないので、それも新聞系の広告屋にいたので言いたい放題の世界でした。ダメもとでいいから3泊4日東京営業「製薬メーカー)してきたらいいよと寛大でしたね。背中に権威を置いて語る人間は嫌われ排除されましたからね。携帯やスマホが普及する前のほうが自由度は高かったのではないでしょうか? 反論や批判しても自分の言葉ではなくて、誰かの借り物を借りていただけですからね。定年になってからも権威にしがみついてる男は多いですす。そして名誉だけは求めていたりします。
昔の少年。
何でも批判的になればキリがないですね。それよりも「何故だろう?」と考えた方が遥かに真実が見えて来そうですね。興奮しやすい人は最後には自分自身が何で興奮しているのか?さえ分からなくなってしまう事も無きにしも非ずで、元の話題から大きく外れてしまう事すらありますね。腹が立ったら、一言物申す前に、ゆっくり6つ数えてから言葉を選んで落ち着いて、しかも物静かに話し出した方が、自分自身の為にも良い結果が得られるでしょうね。6つ数えれば腹の虫も少しはおとなしくなりますよ。
seto
妻も私の攻撃的な批評に辟易していて、車に乗るのを嫌がられています。私も話し相手がいないのでしょうね、情けない。いまはまってる,大化のころから東北蝦夷征伐を画策してきた、京都の公家や弥生的な国づくりに怒りの言説を私が吐いてもさっぱりついてきません。1500年にわたる問題なんですが。きょうのほうれん草の値段ですね、関心は。
アドマン。
批判はキリがないですね。中学生くらいの女子が「箸が転んでも笑う」事とは対照的に、観るもの、聞くもの、何でも批判対象になってしまいます。そんな自分もTVを見て、つい批判的になって、相手に聞こえもしないのに言いたい放題グチってしまいます。独り言だと思えば罪もないですが、家から出て、これを何処其処構わず批判的な言動ばかりでは、同調する人も多少は居るかも知れませんが、傍迷惑で公害人間ですね。それに比べ、穏やかで笑顔が素敵な人に会えば、此方も笑顔で返して、無言のうちに幸せを感じますね。批判も大切な時も有りますが、他人を不愉快にする事は、自分に置き換えれば出来ない事ですね。
seto
TVはせいぜい、野球しか見ませんが、解説がうるさくて「ここでしかギャラが稼げないから、知ってるだけのことを話して、印象づけよう、もっと儲けないとろーーんや子供の教育費稼げない)という気持ちが伝わってきて、音声を消します。とにかくテレビはどうでもいいことをよく喋ります。プロダクションから目立つ発言をするよう指導されていると思うのですが、ウルサイだけ。芸能界の内輪話だけで、社会性や客観性なく、聞いていて聞き苦しい。
匿名
若者用語を使うSNSは意味不明なものが殆どですね。アニメや漫画を観たり読んだりすると多少は理解できるかも知れませんが、マンガばかり読んでもいられないですし、アニメばかりも観ていられませんから、そんな言葉自体を知らない訳です。語彙どころか造語さえ有りますから、理解する事はできません。歌にしても、歌詞も日常の情景を早口で唱えるまるでお経の様な歌ばかりです。現代の歌は、歌詞を味わうのではなく、聞き流すのが常識なんですかね。
seto
タレントの名前がわかりません。孫にクリスマスプレゼント送りが近づきましたが、何を欲しいのかわからず「お金」にしました。それにしても、ガチャが好きだ。