『われわれは言葉を節することを、そろそろ知らなければならないのではないか』(橋本治)
2008年の小林秀雄賞に選ばれた多田富雄「寡黙なる巨人」の選考委員である橋本治の言葉で、養老孟司の「大言論」の中にあった。ぐさっときた。ブログが世の中に必要なのかどうか自分で検証をしないまま、毎日、文字を並べる作業をしている(はじめの頃は強迫観念も働きながら)。腰の据え方がふらついて書いているから、ぐさりときたのだ。さっそく「寡黙なる巨人」を図書館から借りてきて、いま読み終わった。
いつノーベル賞を受賞しても良かった世界の宝みたいな免疫学者が67歳のときに金沢で突然、脳梗塞に襲われ、言葉と行動を奪われ、舌の動きもできず、闇の世界へ突き落される。食べることもできず、飲むこともできず、意思表示もできず、自分はただの「糞便製造機」だと自嘲する。自死も頭をよぎるが、常に醒めた目で病状を見守る・看病する医師の奥さんを見て「私の命は私だけのものではないことを無言のうちに教えていた」。「何もしないでベッドに寝ているだけで、ものも食わずに(チューブで栄養)糞をためている。排泄するのも人工的にする。それでは文字通り糞便製造機になってしまったようなものだ」。
この本は彼の日記である。相手の言葉は理解できる、筆記はできるところからワープロを友人から送られ、教えられ、リハビリを繰り返して生還してくる。「あの日を境にしてすべてが変わってしまった。私の人生も、生きる目的も、喜びも、悲しみも、みんなその前とは違ってしまった」で始まる。養老孟司は「多田富雄の言葉は球麻痺による半身の麻痺という、当人が置かれた身体的な状況もあって、一語一語がまさに搾り出されたものだった。その文体の勁(つよ)さが心を打つ。別な表現をすれば、言語は身体から発しなければならないのである」と。世の中は知ったかぶりの身体から発せられない言葉の氾濫。
表題の「われわれはそろそろ言葉を節することを、知らなければならないのではないか」というのは、身体から発する大事な言葉が、雑語に埋もれてしまい、見えにくく、聞こえにくくなってきている社会になっていることを橋本治や養老孟司は言いたいのかもしれない。大脳も身体の一部であるから、左脳の言語野から繰り出される言葉の数々。果たして、それは本当にその人の言いたいこと、その人しか表現できない言葉たちなんだろうか?誰かの借り物(テレビや新聞記事、評論家、会社の上司の言葉など)でしかないのかもしれない。すべてが闇に入った時に、たった一人で、事態に立ち向かうときに、その人自身の本当の言葉が紡ぎだされる気がする。叫び声であっても。言葉の山を登山している心境に私はなる。
そのとき、多田さんの中でもう一人の巨人が立ち上がる。巨人が棲み始めて、彼を支える。彼が若い時代、文学少年、詩を目指していた。そのときの体験や経験が50年を経て蘇っているようにも読める本だ。中原中也、富永太郎、小林秀雄、江藤淳、アンリ・ベルグソン、三好達治、孔子、ランボーなど筆者より17歳年長ではあるけれど、若い時に養われた感性・教養や体験が地獄の苦しみの中にあってもどこかで生きている、とにかく凄い書物であった。「身体から一語一語搾り出される言葉」とはこういう言葉たちを言うお手本。自分の書く言葉の軽さを思い知った読書だった。
若い頃、テキスタイルデザインをかじった男。
美しい言葉、正しい言葉について語る事は多いのですが、私たちが話す言葉のどれも、最初から美しいと決まっている言葉や、正しいと決まっている言葉はないはずですね。あるとき発した言葉が美しかったとしても、他の人がそれを用いたときも必ず美しいとは限らないですからね。言葉の本質が、口先だけや、語彙だけではなく、それを発している人にもよりけりと言う事でしょうね。中学国語の教科書にあった、京都は嵯峨に住む染織家の志村ふくみさんの仕事場での話しですが、訪ねたある人に、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織りあげた着物を見せてくれたので、桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思ったらしいのですが、志村さんの説明は何と?桜の樹皮から取り出した色だと。続いて、さらに教えてくれたのは、この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではなく、桜の花が咲く直前のころ、山桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような色が取り出せるのだと。誰もが花の色と解釈しがちが、実は想像もつかない樹皮からいただいた樹液から得られた色彩だったと言うのですから、言葉の深みは、その道に身を置いていた方だからこそ話せる言葉ですね。美しい桜の開花時期には誰もがその枝の先に咲く花だけを愛でて、多くを語り合うのでしょうが、その鮮やかな色彩も、実はゴツゴツした幹から湧き出る樹液の色だったのですね。花の美しさや、言葉の美しさも、その強さも、桜の木に例えれば、理解しやすい、深い話ですね。
seto
桜の色の染色ですね。はじめて聞きました。うるしの講演会へは一度行きました。山桜の皮に桜の花の色を出す色素が含まれているのですね。先祖伝来伝わる技術、いつまでも続けていい作品を出して欲しいですね。テキスタイルって初めて聞いたとき、アメリカの西部のテキサスと間違えました。
坊主の孫。
言葉は、人に様々な効果や影響も与えますね。励まされた言葉、傷ついた言葉、良くも悪くも忘れられない言葉、など言葉は様々な場面で様々な人達と交わしてきました。言葉は薬にも凶器にもなりますから、言葉づかいには気を付けたいですね。覆水盆に返らずとも言われますから、一度、口からこぼれ出た悪い言葉は取り返しが効きません。そのほんの一言でその人の人格まで疑われるとしたら、うかつな事は言えませんね。相手によりけりですが、会話も或る程度の礼節を守る事が大切でしょうね。
seto
身近にお手本になるような振舞い「言葉はふるまいかも)して、自然に刺激を受ける大人がほしいですね。そういう人があちこちにいれば、穏やかな社会になるのにもったいない気がします。スピード・効率・金・経費節減、ネットとロボットに振り回されてる現代ですから、狂気のようにSNSを利用する人も出てきます。昨日、倉本聰さんの、日本の社会に残しておきたい言葉に、森の時計はゆっくり歩む。若者への提言では(もっと自分の足元をみなさい」と言ってました。毎日、食べる米はどこからどうやって来るのか、それを買うために金を稼ぐ。私は毎日吸っている空気「絶妙な酸素率」への感謝ですね。パニック障害に苦しんだので敏感にそう思います。コーヒーミルを1200円でニトリで買ってきて、昨日から豆を挽いて飲んでいます。汗だくです。しかし、すっぱくて苦くて美味い。1杯のコーヒーつくる労働が朝ごはんつくるとともに加わりました。
アドマン。
突然!言葉を失ったら、言葉を交わせませんから、筆談になりますね。昔、元気の良い現場監督あがりのハウスメーカーの支店長さんが顎のガンで突然喋れなくなりました。それが原因か?どうか東京の本社の片隅に異動になりました。口も立つ人で行動的でしたが、手足もがれた感じになり、戻って来た時には一時、系列会社の社長のポストに収まりましたが、全て筆談ですっかりイメージが変わってしまいました。そのうち業界からも足を洗ってしまいました。目は口ほどに物を言うとも言いますが、宇宙人よろしく、目で話が通じるアイコンタクトでも有れば良いのでしょうが。
seto
筆談できればいいですが、筋肉が動くので意思表示できますが、ALSでは無理です。ホーキング博士みたく瞳の動きで文字盤を動かすソフトはありますが。声が出ない、筋肉が動かない人は多いですよ。