うつ病という言葉がこんなに日常的に、会話に、テレビ番組に、映画にたくさん出てきておかしいと思う人はいないのだろうか?私の若いときは、両親は「あの人はノイローゼだから」という言葉を多用していて、その真意は、何事も神経質で、細かいことにこだわって仕事や勉強がはかどらないのだという程度で、どこかに寛容さや、時間が経過すればすぐに治るよという楽観があった。うつ病の定義は、アメリカ精神医学会編纂「精神障害の分類と統計の手引」第3版(DSM-Ⅲ)に依っていて、この定義づくりに製薬会社の治験やお金が投入されているのは言うまでもない。うつ病の定義が広がる、一般に周知されれればされるほど、患者が増えてると思わないだろうか?(というより、言葉や単語が使われ出すと、その該当者が続々増えてくるという現象の話で、不登校や引きこもりも大病以外は昔はなかった。下痢をしてでも行ったものだ。言葉があると、しかも細かく分類されてしまうと、患者を増やすことになるという話で、医者と薬メーカの収入のために病気は作られている部分が相当あるということだ。)

街中に乱立する心療内科の看板を見るにつけ、人気の病院は診察まで何か月待ち状態である。これといった医療設備投資も要らず、使うのはアドバイスと抗鬱剤・精神安定剤といった薬。それも1種ではなくて何種も組み合わせて、患者負担を増やさせて通い続ける。こう書く私も恥ずかしながら、以前、在職した会社で「うつ病なんて怖くない」と題した講演会をF社からの協賛金で開催した。当日は超満員で参加を断る状況であった。講師もこの道の権威ある先生であった。そのときに作成した小冊子はF社のMRが日本全国の内科を中心に置いた読本である。何回も増刷を繰り返した。余談ながら、私は当日は患者さんが、たくさん来るから、明るい雰囲気作りにと前座に、地元の落語家を呼んで、笑いをとろうと思った。しかし、これが大失敗であった。

終わった後のアンケートで「笑いをやるとは何事か!」「真剣に病気を治そうと思ってきたのにふざけてる」と最悪の評価であった。ただ、この講師自身がうつ病で苦しんだ体験を話し始めると、患者の体が前向きになり、親しげな雰囲気に変わっていった。鬱は鬱に親しみを持つ。私の発見である。最近、私は鬱って伝染性があるのではないかという思い込みである。別にウィルスがいいるわけではなくて、暗いと周りも暗くなる程度の話だ。私のところにも4月人事で「環境最悪」とか「朝から暗くて暗くて」「バカをやれる人間が、ムードメーカーがいなくて」というメールが入ってくる。製薬メーカーの高笑いが聞こえてきそうな昨今である。それより精神科の医師がうつ病に罹患していると見えるのは筆者の偏見であろうか?

  1. 鬱を病気に仕立てた時点で『私も、私も、もしかして私も?』と伝染して立派な病名になりました。昔なら「あの人は変わっているネ」とか『神経質だネ』北海道弁で言うなら「神経たかりだネ」程度だったのが、世間で権利を得た途端すべてが『鬱』に変身しました。特徴としては極端な喜怒哀楽が有ると思えば突然塞ぎ込んだり、イライラが募って暴れだしたりもしますから周りの人達も巻き込んで手に負えなくなった挙句『あの人は鬱病だから』と成りますね。一昔前にはこんな症状を一くくりに『気違い』とか『変人』とか『頭が足りない』とか言っていましたし、余りに手に負えなくなれば病院ではなく自宅の土蔵に鍵をかけて隔離していましたね。子供のころには、その土蔵前で囃し立てたり悪戯していました。各村には肺病の人を抱えた家庭と、土蔵に隔離した家庭が必ずありましたね。現代の様に何でも病院より各家庭で面倒見ていた訳です。昔の田舎では医者いらず主義でしたね。

    • メディアでも「うつ病多く」でした。私のところにもTv局や新聞社のだれそれを先日講演した●●先生を紹介して欲しいと依頼がありました。大学病院でも人気の診療科目でしたが、私の紹介ならと言って、待ち時間なく診察してくれました。あとで感謝されました。小学校のころ、同じ空間に知恵の足りない子供も生きて暮していました。もうそれは世間勉強です。隠さなかったです、下町は。私が中一のとき「特殊学級」ができました。何年何組とは言わず、松村学級とか教師の名前を付けてました。ある日、クラスメートのN子が担任に呼ばれて、特殊学級を勧められました。彼女「友達がたくさんいるこのクラスがいい」と断りました。千歳にあった米軍の熊基地勤務のアメリカ人と日本女性の落し子で、両親おらず祖母に育てられました。中学を出て理容美容学校を出て、そこのクラスメートと結婚。3人の子供をもうけました。たまたま店を設けた場所に元楽天の田中マー君のお嫁さん里田舞ちゃんが住んでいて、この店の常連になりました。店は大繁盛して自宅はコンクリート3階、エレベーター付きに新築。子どももロンドンとドイツで理美容室をしているみたいです。彼女曰く「クラスのみんなが私を支えてくれた」と言ってました。2年前、ご主人が亡くなりました。誰にも話していないいい話です。中学のクラス会の2次会が彼女の自宅でした。彼女が中学クラス会の幹事を長年して、2代目を私が継いでました。50年続いています。

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