捨て猫ボランティアの会小山さん撮影

当時は北海道へ行くには莫大な金がかかったので、
政府や旧藩の肝いりの入植事業、囚人などでなければ
とても個人では渡航できませんし、まして現地で食べていく方法も
ありませんでした。
なので、食い詰め者が集まってきたというのは
映画などが作った全くのウソです。
旧藩の移民団も、城代家老クラスが来ていました。
いずれも、藩の将来を賭けた事業だったので、
送り込んだ農民も選び抜かれた人材ばかりです。
共和町前田(加賀藩)や伊達などでは、城代家老の子孫の方が住んでいて
取材したことがあります。

そのうちに岩内や小樽などに歓楽街もできましたが、
これらも渡世人の大親分が人を引き連れて来たもので、
多くは行政とタイップして、風俗地帯を盛り込んだ都市計画をしたものです。
なので当時の渡世人の親分は現在の人材派遣業のようなもので、
清濁併せ持つ存在だったようです。

ついでながら、江戸時代までの農家は、次男、三男に生まれると
奴隷同然の人生を送っていました。
それすらも養いきれなくなると、故郷を出て「博打打ち」として
生活したようです。社会不安の原因になりかねないこれらの
層を引き受けたのが渡世人の親分衆で、
住民の管理という点で、幕府/明治政府にとっても
重要な役割を果たしていました。
清水の次郎長もヤクザとしてより明治期の文化事業などの地域振興で有名です。
官軍の江戸入城にあたっても、勝海舟などが、新門辰五郎などの大親分に
話を通していたそうです。

これらの歴史は裏の歴史どころか、庶民にとっては誰でも知ってる表側でした。
昭和の浪曲や映画で任侠の徒がヒーローになっていたのも
そういう時代の記憶が残っていたからかもしれません。

  1. 歴史には表の顔と真実の裏の顔が存在する訳ですね。しかし、時には、その場に都合よく書き換えられますから信じてしまいがちですね。北海道の良さは来てみないと分かりません。私も最初に驚いたのは全てが本州とは違うところでした。先ずは道路の広さと家屋の形、意外にも標準語に近い話し言葉、その中でも女性はむしろ江戸っ子の様なタンカの効いた話し方でしたし、美しい人達が多いと感じました。驚いたのは1月の厳寒期に札幌に降り立った時の事、サラリーマン風の男性がバーバリコートに手袋もしないで鞄を持って路面電車を待っていた姿でした。一方、私は襟に毛の付いた防寒着にコーディユロイのズボンに防寒ブーツに毛糸の帽子と分厚い毛糸の手袋姿でした。それでも寒くて当時の五番館に暖を取りに入った程でした。本州の田舎では囲炉裏を囲んで胡坐をかいていたのですが、北海道はストーブに椅子の生活でした。風景は外国風、古い慣習も無く、当初暫くはは新天地の気分でした。言語こそ日本語ですが、各地からの移住のルーツを持つ人たちばかりで、まるでアメリカみたいですね。今一度、それぞれの人達のルーツを調べれば、移民の訳や真実も判明するでしょうね。

    • アメリカですね。私もはじめて本州に渡って、ここは同じ日本かと思いましたから。瓦の屋根にびっくり、窓の薄さにびっくり、部屋の寒さにびっくり、方言にびっくりしました。女性も筋肉の強さがないと農家や冬を乗り越えることできないから力強いです。日本国の23%の国土面積有るのであと100万増えて欲しいです。鈴木知事、大胆さがないので頼りない。北海道の歴史をもっと学んでほしいですね。

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