上岡竜太郎さんに作家の村上龍さんが「男はこれからどうやって生きればいいんですかね」と問いかけたら「男は女のように生きなきゃいかん」と返事した。これまで①男の喋りはみっともない②男はめそめそ泣くもんやない③未練たらしくするな④あっさりしろという紋切型の説教があったが、上岡さんは「本当の男というものの一番の素材は、めそめそして未練たらしく泣き虫なのが男ではないか」と喝破した(ユーチューブから)下記のブログはそれを補完する内容でもあるので再録します。

男の大半は臆病である(精神科医 名越康文)

『女は臆病な男が嫌いである。しかし、男の大半は臆病である』(女はギャップ 扶桑社文庫)

けだし名言である。自分を振り返っても居酒屋で男同士で話す話題も『臆病であるがゆえの強がりであったり、意固地であったり、見栄だけであったりする。そこに女性でもいるものなら、臆病ではないところを出し合う場面に転換して、最後の支払いの段になると、おれが払う』まで発展する。

福岡伸一さんの本『できそこないの男たち』も地球誕生が46億年前、最初の生命の発生が36億年前、それからさらに10億年で複雑な生物の誕生になるのだが、はじめはすべてメスであった。強いメスの縦糸に、ちょこちょこ横断するのがオスである。お笑いで昔、ちょっとおじゃましますという言葉が流行ったが実はそれこそオスの正体ではなかったか。おじゃま虫である。故志村けんの「となりのシムラ」(NHK)をビデオで見ているが、それを地でいっていて泣けてくる。西田敏行との入院患者同士のコントがあるが、幸福について西田敏行のセリフがいい。志村けんのペーソスは一歩引いたところでもだえることである。

男の臆病さからさまざまな行動形態が現れる。他人をたえず意識しながら生きる性だとしたら、強く見せようと武器を強力にして、より多くの相手を殺して英雄願望を満たしたり、知識で武装して相手を言い負かせて強がる。

フランスの16世紀の学者モンテーニュの随想録27章、『臆病は残忍の母』という1章をもうけているくらいだ。16世紀、宗教戦争真っ盛りの只中だから、裸で男の残忍さが露呈している。『経験によって、この意地の悪い非人間的な心の激しさ・むごさは、通例、めめしい意気地なさに伴っていることを知った』(956p 白水社 縮刷版)。そして男の代名詞、勇敢や勇猛や武勇は『その効果は抵抗にぶつかって初めて発揮される。闘牛も抵抗がなければ面白くも無い』なぜ戦争を始めるのが男であるのかわかる。臆病だからだ。トランプもきっと臆病な男に間違いない。

野球にしても、投手からみたら打者、打者から見たら投手が抵抗体である。相撲も相手がいて(抵抗体)はじめて勇猛という形容詞が誕生する。しかし、ブログの読者の多くが男性だとしたら、『男の大半は臆病である』という言葉に同意すると思う。ここのところをほとんどの女性は誤解をしている気がする。名越さんの本は、男の本音を語って女性に恋愛のイロハ、男ココロをこっそり教えている虎の巻のような本で、まずいなあと思わせる本であった。

さらに現代政治の権力者に向けて、モンテーニュは『何が暴君たちをあんなににも血を渇かせるのか。それは自分の身の安泰をこい願うからである。彼らの卑怯な心は、自分に危害を加えそうな人々を、いや引っ掻かれるのさえ恐ろしくて、女までも、ことごとく根絶やしにするほかに、安心するすべを知らないのである』(同書964p)

エジプトでもギリシャでもローマでも中国でも江戸時代も現代の北朝鮮でも自民党内でも日本企業の派閥抗争でもどこでも見かける風景であるが、この『女は臆病な男が嫌いである』。が真実だとしても、嫌われてもいいから無謀なしなくてもいい争いから身を一歩引いたところで生きたいものである。

しかし、臆病さが男の本質を言い当てているなら、そこをわかる女性が賢い恋愛に入れるかもしれない。少子化を言うならこのあたりから、議論しないと先には進まない気がするのだが、いかがだろうか?

 

  1. しかし、今や強いのは果たしてどちらでしょうね?。例えば、殺戮の為の武器なども使えず、体力差も無力で使えない対等な立場では武器は口しかありませんね。つまり言葉だけの戦いで、受け売りの正論で、しかもその都度考えながら発言して勝とうとする男に対し、現実論で機関銃のようにまくしたてる女性が居たとすれば、討論は全く嚙み合わず、機関銃の様な口数には正論と言う武器は通用しませんね。第一、弾数だけで敗けますね。お互い同じ正論同士なら別ですが、不意を食らった現実論には到底叶いません。口数は大抵の女性の特権で、多分?女性は皆『口から生まれ』、男性は『足から生まれ』たのではないか?と。しかし、最近では女性化した男性も多く、男性化した女性も多いのが現実社会に成りつつありますから、この先、逆転する可能性も否定はできませんね。今では中性を売りにしたタレントも多いですね。彼ら彼女らは異性の特技を使いこなして居ますね。

    • 狭い自分の人間関係を観察(もちろん自分含めて)して、ボランティア仲間女性10人、妻、友人の妻たち、娘など見るととにかく話が長い。次から次と速射砲。私は逃げるので「都合悪くなると逃げるんだから」と批判されます。病気とか町内の事故とか関心ある話題はついていきますが。テレビを見ないので俳優・歌手ダメですね。一昨年、随分けんかしていた女性がいました。無くなりました。お互い諦めたのでしょう。のんびり距離を取るといいです。

  2. 男らしさ、女らしさは今や禁句のようですね。男気のある女性、女姓的男性など性別を意識してはいけない時代なんですね。トイレの表示板のピクトグラムもエレベーターの表示板のピクトもこれまでは男女のみでしたが、3パターンの表示も出て来ました。これで困るのは銭湯やサウナでしょうね。中性専門の設備を増設しなければなりませんからね。しかし問題は異常者が潜り込む可能性も無きにしも非ずですから中性証明書付マイナンバーカードでも作らなければいけなくなって来ましたね。読み取り機械で顔認証してから中性銭湯や中性サウナに初めて入湯許可が出るような。

    • 結婚も同性の合意を「ふたりで合意」に民法変えれば済みますね。基本は子供を含めて「人権意識」を徹底することですね。これは幼稚園から必要です。子ども人権宣言。組織の中の威張りん坊人間をどうにかしないといけません。世界のニュースを見ているとどの局も素晴らしい女性アナウンサーが自立して解説してます。風呂はたぶん自宅のふろを利用すると思いますよ。温泉も部屋にお風呂ありますから、心配の必要ありません。彼らは賢く振舞います。

  3. この世に『らしさ』のお手本がある訳では無いのでしょうが、何となく『らしさ』と言いますね。つまり漠然としているからこそ『らしさ』なんですかね?。人それぞれに姿や性格も違いますから、その人個人の思う『らしさ像』が有るのでしょうね。そう考えれば『らしさ』も個人のオリジナルが有ってもいい訳で、と言うよりも個人個人でらしさのオリジナルを作ってもいい訳です。自分自身が考える『らしさ』は千差万別になるでしょうね。つまり『あの人らしさ』と言う訳ですね。

    • 自分を考えてみるとルーテル教会の幼稚園からいままで、自分がそんなに変わってきたと思えないですが、どうなんでしょう。小学校・中学と約20人の人とも会話してますが、お互い変わってないですね。基本のDNAが相変わらず指示・指導しているのでしょうか?私らしさがずつと続いている。自分ではよく内容がわかりません。

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