通勤や通学で街中を歩く人たちはいるが、しかし、街へ出たくても出れない人も大勢いる。高齢であったり、対人恐怖症であったり、病院のベッドから出られず動けない人。普段から引きこもりを生業とする、親に養われている人もいる。一人だけで引きこもると餓死をするから、必ず横に母親や父親、それにおじいちゃんやおばあちゃんもいる。息をひそめて生きている。

家庭の中で普通の会話ができれば、引きこもりは終わりに近いと言える。私の身近にも40代と50代の男女の引きこもりがいるが(引きこもりの高齢化である)、自分の健康については神経質で、隣町まで歩いて体を鍛えている。『長生きするんだ』と宣言している。立膝をついて食事をするからマナーの悪さにびっくりするが、親は注意ができない。自分の子供であるが。社会人としてのマナーについて遠慮して注意できない親たち。何かを恐れている。自分たちの隣近所への見栄なのか。

車で札幌の病院に行くときは必ず、どちらかの親が歯医者であっても同行している。親は80代代に入り、万が一のときどうするんだろうと思う。それにしても毎日、何をして生きているのか覗いてみたい気もするが、怖い気もする。街中でスケートボードで騒いでいる周りにこれ見よがしに生きている人たちは救いである。中には奇声を発したり、ぶつぶつ独り言を喋りながら歩いている人もいて、危ない感じがする人もいるが、自宅に25年以上篭ってる親戚を持ってる筆者には「まだ、羨ましい」感じもする。

「孤独は人間を成長させる大きな糧」と言うけれど、それは、普段、たくさんの他者との人間関係があってのこと。近所の農家の人に農場での労働の相談をしたら『いいいよ、いつでもどうぞ』と言ってくれた。肉体労働で体力的にもつかどうか、朝の交通はどうするかという具体的な難題にぶつかったが、世間は意外や自分が考えるほど非寛容ではないのだということを、ひきこもりや『外を出歩かない』男女に言っておいきたい。『君もそうだったんたんだ、僕もそういう時期があったが、まあがんばろうや』という20代、30代も多い。むしろ彼らの親たちの価値観のほうに問題が多いと筆者なのでは思う次第だ。

  1. 家族やごく少人数の他人と軽い接触から始め、またオンラインなどで興味のあるテーマを共有できるコミュニティに参加したり、 絵を描いたり、文章を書いたり、音楽などにふれたり、また楽器を始めたり、することで「自分の存在の証明」を感じるようになりますね。山下清さんではないですが、自分の世界に没頭するようなキャラになることでも、他人から興味を持たれる結果、コミニュケーションのツールを身に着けることにもなりますね。他人に見せたり、聞かせたり、他人の興味を引くようになれば、自ずと人との接点ができますから、毎日少しだけでも外の空気を吸う為の習慣化された行動が回復につながるでしょうね。支える身内も気遣い過ぎれば、それが当然となり、逆効果になりますから、身内から自主性のきっかけのヒントを与える事の方が大切でしょうね。例えば、引きこもりが居るから近所に恥ずかしいので近所づきあいは一切しないとか、当たり前のようにも思いますが、それは間違いでしょうね。さらけ出してお付き合いしたり、または隣人や知り合いが自宅に出入りすれば、自閉症や引きこもりも治る事例もありますからね。しかし、家族がかばっているつもりでも、他人からは丸見えですから、隠さず表に出した方が賢明ですね。それより何より本人の将来の為にも少しでも外との繋がりを持つ事への援助のほうがが必要でしょうね。

    • 他人との会話やおしゃべりががサイコーですね。近所付き合いがその端緒でしょうね。家族でもひとりにしてほしい時間もありますからね。そのために健康や病気を防ぐための日常生活ができないとね。いま一番、したいことは飛行機に乗って博物館めぐりです。ブログノネタ探しです。ずいぶん高くつくブログです。

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