廃屋

恵庭島松地区にあった廃屋です筆者撮影

『市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつことよりも自分が接する家族と文句なしに気持ちよく生きられたら、そのほうがはるかにいいことなのではないか、そんなふうにぼくは思うのです』『個人のほうが国家や公より大きいんです』『何が強いって、最後はひとりが一番強いんです』(吉本隆明・・NHK教育テレビ・戦後史証言プロジェクトより)

見えない人々、いまだお会いしたこともない人々、生まれた人、亡くなった人、特に名も残さず有名人にもならず、物を書きもぜず、残さず、思い出の写真を何枚か家族に残して世を去っていった、そして歴史を作るぞと言ってつくるわけでなく、テレビや新聞に出ることもなく、たんたんと日常をこなして、家族が集まれば「笑いのひとつもある家庭をつくって」暮らす人々へ、吉本隆明からの応援歌と読めるのは私だけだろうか。道を歩いていて、誰からも注視されることのない自由感はたまらない。「自分が接する家族と文句なしに気持ちよく生きる」ことができたら、またそれを壊す外的な事件や権力に歯向かえる言葉と腹があれば、もっと自由な、市井の人々にとっても生き易い社会になるだろうと思う。アメリカの西部開拓を目指しながら斃れていったフロンティア・マンたちの廃屋をテーマにして書いた詩・・・。

つぶれかけた、からっぽの小屋は、

彼らがすくなくてもここでは、

敗残の人たちであることを物語っている。

しかし、その敗残のうえに、

わたしたちの成功は築かれている。

都市も、町も、すべて

農場も、蜿蜒(えんえん)とつづく道路もすべて

彼らが敢えて挑み、そして敗れたからこそ、在る。

多くの人たちの敗残で贖(あがな)われずに、

人間が手にしたものなど

いまだかつてありはしない。(アンナ・ルイス・ストロング)西園寺公一訳

戦後70年を迎えて、天皇陛下がペリリュ島へ墓参に行った。NHKで昨年「狂気の戦場ペリリユ島~忘れられた島~」を見た。奇跡的に生き残った兵士が「絶対に戦争だけは起こしてはいけない」と断言。軍国少年だった吉本隆明は、戦争中は「それゆけ、前へ進め、死など恐れるな」と旗を振った人々、マスコミ・教員・インテリなどの戦後の豹変ぶりに、激しい怒りを覚えた。それが「個のほうが国家や公より大きんですよ」という発言に向かわせた。その個が果たして、本当な個であるのかどうか?

 

  1. 歴史と言っても、身近な所では、一世紀にも満たない終戦後未だ80年しか経って居ません。第二次世界大戦の戦後と言えば、それほど短い歴史です。日本はこの戦争で大国連合軍を相手に無謀な戦いをし、推測通りに、ついには敗れました。戦争を仕掛けた敗戦国です。この戦争で米国を始め欧米国家との戦力の差、国力の差を思い知らされたのも事実です。世界は既に近代化への道を歩き始めていたのです。言い換えれば、まるで鉄砲対刀のような戦争でしたね。遂には世界で唯一の原爆体験国にまでなりました。全国各地の戦争被害は多大ですが、特に広島や長崎の被爆者の方々は、一瞬にして未来への希望を奪われた戦争の犠牲者ですね。もしも東京や大阪など他の都市にも原爆投下されていたらと考えると、立ち直れず今の日本は無くなってしまったかも知れませんね。復興は軍人でも大臣でもない、それまで犠牲を強いられ、すべてを失くした普通の人達の知恵と手によるものが殆どだったのでしょうね。名も知らぬ人達同士の心が一つになって今現在の礎が出来たのでしょう。大都会のビル街も元はと言えばバラック街の上に築かれている事を忘れてはいけませんね。

    • まったくそうですね。戦争で唯一、傷つかなかったのは官僚たちです。そのシステムや人間たちは残っていました。いつもこういう役員たちはのうのうと給与と年金をもらい続けています。沖縄戦で北海道出身者の死が沖縄の人々に続いて2位の多さでした。満州から沖縄へたくさん転戦されました。戦前の社会環境と現代が似ている気もします。失業や貧困のう増加、誰かなんとかしてくれよという雰囲気もあります。なんといっても日本ファーストだけは叫んではいけません。戦前と同じでトランプの真似、ドイツネオナチのコピーです。周辺の国へ排他することで、最悪の結果を生むでしょう。・

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