すべての生物は別々な時間と空間を生きている
「暇と退屈の倫理学)(國分功一郎)の中で引用されていたエストニアの理論生物学者ユクスキュルの提唱した「環生物」の概念だ。以下、國分さん。「私たちはふだん、自分たちをも含めたあらゆる生物が同じ時間同じ空間を生きていると考えている。ユクスキュルが疑ったのはそこである。彼は述べる。すべての生物がそのなかに置かれているような単一の世界など存在しない。すべての生物は別々の時間と空間を生きている」(新潮文庫294p)あらゆる生物はそれぞれがそれぞれの環世界を生きている。人間が頭の中で抽象化するのが「環境」だとして、実はそれは虚構で、それぞれの生物はそれぞれの環世界を生きている。
人間も例外ではなくて、たとえば札幌の駅前通りに降り立ったとして、ここから500メートル先の大通り公園まで歩くとしよう。Aは広告屋さん40歳、Bはテレビ局に勤めるOL35歳、Cは建設会社に勤める建築士40歳、Dはこれからハローワークで仕事探しの26歳男だ。5月にしては暖かい25度で風はない。湿度も低く快適。午前8時30分。黄砂が降るから注意報が出ていた。道銀駅前支店のニュースビジョンでは広島で開催のG7のニュスが流れている。そういう環境に囲まれて4人はこれから始動開始。足の筋肉へ目的地まで歩きだす。
Aは朝9時半からの営業会議で何を話そうか思案して,少しいらイライラが出てくる。(なぜ若い奴は新規開拓の飛び込み営業をしないのか困ったものだ)周りの景色はいつもと同じでほとんど何も見てない。せいぜい前から来る歩道を走る自転車にぶつからないよう注意するだけ。Bはようやくテレビ局に派遣とはいえ職を得て、ラジオとテレビの現場と事務方の仕事を任せられるようになって、のりのりな毎日。病気がちなお母さんが心配ではあるが、近々、退院してくるからそのときはささやかなお祝い会をしよう。ケーキも用意しておこう。大丸デパートのフルーツファクトリーにしよう。Cは職業柄、建物の外観や看板の取り付け具合を見てしまう。北2西2のかに本家の看板が落ちてきて、ランチタイムに偶然下を通ったOLが大けがをした事件が以前あった。植物状態になったと聞いているが回復したのだろうか?大成建設がHBC跡地にNTT都市開発発注の高層ビル工事で決められていたボルトより細いものを使い、さらに改ざんをしていて途中までの工事を中止、全部一度解体してやり直す前代未聞の手抜き工事があった。自分の仕事はゼネコンの下請けが多いから設計図を何度も見直すことを今度の会議で提案しよう。Dは事務の仕事を希望しているが、派遣の繰り返しではなくて正社員への道がないか電車通りにあるハローワーク。
AからDは同じ時間と空間にいながらまったく別の世界を生きていると思わないだろうか?見ているもの、考えていること、感じていること、さらに家庭を持っているとさらに複雑になる。2023年5月24日午前9時半札幌駅前にたたずむ4人。ホモサピエンス。駅前通りはAにとってはスポンサーのヤマ、Bにとっては楽しい職場と同僚がすべて、Cにとっては駅前通りは建築物の群れで観察し尽せない宝庫、Dにとっては駅間通りのどこかの企業で働けないか羨望の通りだ。
札幌市内で約200万人のひとが住んでいる。AからDのようにそれぞれの時間と空間を生きている。ひとりひとり話してみないとわからない。聞いてみると200万種類の物語がきっとある。
環世界は同じ種(ホモサピエンス)であっても、全然別な時間と空間を生きているんだと思う次第だ。
環世界は人間以外の別な生物から見える世界と喧伝されているが、私は敢えて、それ以上に人間同士の「環世界」を想像してみた次第だ。一度、自分を「世界虫」になったとして,地を這いずるところから現代を見直してみたいものだ。一匹の虫であって、ほかの虫たちとは違う。
食うてひり つるんで迷う世界虫 上(かみ)天子より下(しも)庶人まで (司馬江漢 江戸末期の画人・洋学者で奇人天才)
坊主の孫。
ハエなど昆虫は人間よりも高速で視覚情報を処理して人間が「一瞬」と感じる間に彼らは何十もの情報を受け取っているようです。
だからハエなどは人間の手やハエ叩きや殺虫スプレーが近づくと「スローモーション」のように感じて逃げられるようです。
また、樹木や菌類は人間の時間感覚では「静止している」ように見えますが、彼らにとっては数十年単位の変化が「活動的」な
時間だそうです。菌類のネットワークは、ゆっくりと情報伝達し森全体を統治するようです。犬や猫の場合は嗅覚が主な知覚手段
で、匂いの「残像」によって過去の出来事を追体験するようです。彼らの時間は匂いの濃淡や持続によって構成されているようです。
我々人間の時間感覚は「記憶」と「予測」によって構成され、過去の記憶や経験と未来予測によって現在を意識し、言語や文化とし
て後世にも残そうとしますが、他の生物にはこのような「時間の物語化」はないようです。あらゆる生物は、それぞれの感覚器官と
脳の構造によって、自分たちの世界を「構成」しているようですね。人間中心主義の問い直しが必要ですね。
人間の時間感覚や価値観が全てではないことを認識することで、他の生物との共存や理解も深まりそうですね。
また時間という概念を「生物的・存在論的な多様性」の視点から見直すきっかけになりますね。
seto
時間は人間にとって時間でしかありません。あらゆる生物にとって共通の時間はありません。したがってほかの生物には死の恐怖はありません。私にも愛犬コロがいました、がん手術を2回しましたが13歳でなくなりましたが、毎日毎日寄り添って、死を看取りましたが、普段どうり,息はたえだえでしたが、死への恐怖は感じませんでした。むしろこちら飼い主側に強い死への感情、深い悲しみがあってあっけなく逝ってしまいました。(時間はない)という本も売れているようです。今読んでいる、16世紀の植民地、そこで行われる奴隷売買「労働者売買)、資源の泥棒合戦(境界線の人口化)、貴族がさらにおお金持ちになる構造は現代にそっくりで時間とともに進化や進歩はしていませんね。夏の高校野球やMLBを見ていて,古代ローマのコロシアムを何度も繰り返す人間文化を見ているようです。裸からユニホームを着せて、踊らされて(NHKや新聞社、阪神電鉄)、そこにお金が動くビジネスとして構成されています。小学校のとき野球で2年ばかり虐められていたので、60年前の記憶はなくなりません。野球というスポーツの縦社会の異常さにはうんざりします。バレーや卓球をしましたが、あの野球の部活動の暗さはありません。(すべての生物は別別な時間を生きている」とはテーマ変わりましたが、広島広陵高校の話題があったので、高野連のいい加減さ、NHKの解説者は野球馬鹿ばかりが出てきます。こんなんで食べてきた食べてこれた、とつくづく日本社会における野球の位置づけの異様さを思います、スポーツ嫌いの人は多くそう思っています。