ブログに初めて女性からの投稿です。ある新聞で(怪談特集)があって投稿したら掲載されたとのこと。その前段の話が詳しく書かれていました。新聞は字数制限が厳しい。

22歳で新卒で、はじめて就いたのが、新聞社の受付でした。要領も悪く覚えも悪くて自己肯定感は下がる一方の毎日で、寝る前に毎晩キヨちゃん(曾祖母)に手を合わせてから寝ていました。「明日は無事に終わりますように。ミズなく終わりますように。もっと頑張ります」と。受付には当時、黒電話が1台ありました。これをかけると契約したタクシー会社につながります。

そんな私に一言どうしても伝えたくて電話し続けていたらしいんです。

「みんな元気かい?おばあちゃんんね天国だから遠くて、ずっと電話かけてたんだけどなかなか繋がらなくてやっと繋がったの。でもすぐ切れちゃうから、ごめんね。おばあちゃん一方的に話すけど聞いてね」と言われました。「毎日のお仕事のことで不安に思ってるようだけど、何にもしなくていいからね。大丈夫だからね」と。この一言を伝えたくてかけてきたのでしょうね。

天国という遠いところから繋がせるだけでも奇跡。私が小学校3年生のときに他界しているので、社会人になった自分が曾祖母と話せるというのがもう感動で号泣でした。電話はほんとに短くてすぐ切れちゃうから大事なメッセージだけどうしても伝えたくて一方的に話すと言ってきたんだと思いますが。切れてしまう瞬間がわかったので、私も(大好き)と伝えることができてほんとうに全てが奇跡でした。

この話を聞いて、東日本大震災で海岸に電話BOXが置かれた写真を見ました。

  1. 心あたたまるお話ですね。私のお婆ちゃんは東京にいて13人の子供たちの家を2年づつ回って居ました。我が家にも2年間居ました。猛烈な台風の時に庭の大木が我が家の屋根に倒れ恐怖の夏でした。千葉出身で言葉に方言が混じっていたので私は千葉のお婆ちゃんと呼んでいました。13人の子供達には厳し過ぎて嫌われていたようでしたが、孫には優しいお婆ちゃんでした。私が高校生の時に亡くなりました。最後に私の名を呼んでいたそうです。13人もの子供たちを育てた苦労は大変だったでしょうが、母も含め、その子供達が最後まで順番に面倒を診てくれたのは幸せな人生だったと思いますね。お盆に仏壇に向かって亡くなったお婆ちゃんはじめ皆に手を合わせて忍んでいます。

    • 私の祖母は田舎の商店主に嫁ぎましたが、娘3人が結婚して住む町へ「生活は大丈夫だろうか」と心配してお金や下着を持って、札幌・豊富・室蘭へ旧国鉄に乗り1年に1回訪ねて歩いました。御詠歌を村人に教えていたそうで、夏休みに孫が12人集まり遊んでも、店の食べ物は好きなだけ食べなさいと言われたものです。コップ酒も飲ましていましたが、お金のない人には「あるときでけっこう」と飲ませていました。姉御肌の祖母でしたね。わがままな母親もさすがに祖母は尊敬していました。あの生き方は今でも私の手本です。祖母の力は、投稿された彼女もそうですが、坊主の孫さん含めてすごい「力」があるものだと思います。

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