『人間と機械がくっつく』自立している乾電池の偉大さ。
くっつくとは別に糊で付ける訳ではなくて、資本主義の正体、文明の正体は、18世紀以降、『人間と機械がくっつく』ことで説明できるかもしれないと分析した人がいた。アフリカやボルネオの村々の風俗を、機械ではなくて『道具』とくっついている人間が見える。槍であったり、頭に乗せる水汲みの皮であったり、川で洗濯する大きな石であったり、赤ん坊を胸の前で抱っこするお母さんの使う布であったり、トウモロコシや豆を細かくする棒であったり、石であったりする。
そもそも人間の作るものは体の機能の延長で発明され、説明できる。歩く延長は(移動するものとして)車や自転車、さらに動く歩道。バスや電車、飛行機、船。伊能忠敬の時代なら徒歩であった。そして一度機械を使うと止められない性質がある。それを『くっつく』と表現したわけである。こういう簡単な動詞がいま現在の文明の位置や性質をわかりやすく表現してくれるからありがたい。
ブログを書いている私自身はパソコンにくっつきながら書いていると表現していい。階下で妻は新聞を読んでいる。輪転機から刷られた紙に『くっついている』と間接表現もできる。家の前をOLがスマホをいじりながら出勤していく。スマホが手に『くっついている』。向かいのガレージが開けられて車が出されて仕事場へ向う。彼に自家用車がくっついている。人間にある様々な欲望を機械が実現してくれるというわけである。早い、便利、快適に生きたい、そのために機械にくっつくことで実現させる。
電化製品も電気と『くっつく』ことで、その機能を発揮させる。ブラックアウトでどれだけ家中が電気にくっつくことで生かされているか骨身にしみた。ある人が『自立している乾電池の偉大さを胆振東部地震で感じた』というフレーズが印象的であった。小さなバッテリーもそうだし、システムではなくてバラバラな物であってもそれ自身動く・作用する物はやはり凄いと筆者は感じる。それに似ているのが自転車で、足の力で動力を伝えてより早く走る、システムに依存しない機械だ。地震が起きても、決まった時間に自転車で出社した新聞社の人がいた。新聞社は自家発電が動いて様々な業界の人がスマホの充電にやってきたと言っていた。帯広の四つ葉乳業も牛の乳を捨てることなく、自家発電で動いていたが、こういう設備を持つのは例外的な会社で、やはり電力と電線にくっついてかろうじて文明を維持していることだけは疑えない。
それを見透かして、早々とほくでんは泊原発再稼動に舵を切りそうである。案の定のブラックアウトを利用して、泊が動き出しそうで、しかも寒い北海道が始まっているから『シメシメ』である。放射性廃棄物の処理が決まらないのに、後世にツケを回す癖の世代の横暴である。いずれ誰かが発明や発見をするだろう。幌延や石炭跡地の廃坑を利用してやってくれ・・とでも言うのだろか?原発で稼いできた様々な人たちの罪は重い。ウランとくっつき過ぎである。

