ペストの歴史 (第2回目)
「その広がり方、伝染の仕方は徹底的で、住民が住んでいれば島も洞窟も屋根にも、ペストは流行した。しかも、この病気はいつも海岸から始まって、そこから内陸に達した」(プロコピオス ペルシャ戦役史)。
人の移動と物資の移動に並行してペスト菌が動いている。580年~591年に及ぶガリヤでの流行についても記述が残っているが、ペストに加えて天然痘の流行も結びついてスペインからマルセイユに入ったペスト菌はローマへ波及し教皇も死亡する。7世紀、8世紀も再度コンスタンチノーブル、ローマ、マルセイユ、カルタゴ。767年ナポリと南イタリヤに侵入して忽然とペスト菌は消え失せる。時間の経過とともに人々の記憶からもペストへの恐怖心は一時消える。
そして第2波が来る。第2波は中央アジア説が有力で、クリミア半島東側にジェノバの商業拠点都市があり、ここから地中海へ航海するガレー船がペスト菌保有者を運んで各港からペスト菌を流行させる。なぜ中央アジアで1346年から始まったのか不明だが、イスラム教徒タタール人にジェノバ人の城が長い間、包囲され、包囲していた側に黒死病が出て、包囲が解かれたが、その際、病死したタタール人の遺体を投石機で城内に投げられて移されたとされ、あくまでキリスト教徒にとって被害者の言説が残っている。
「神がイスラム教徒側に罰を与えた」と。ともかくジェノバ人が運んだペスト菌は北はモスクワ、南はセビリヤ、東はダブリンまで及んだ。中世の交通網がいかに発達していたかの証明でもある。
1348年シエナ(フィレンツェ南)。「5月になってから大量の人々が死に始めた。それは恐るべき、むごたらしいことであった。その残酷で無慈悲なありさまについてどこから書き始めたらいいのか私にはわからない。それを見た者はあまりの心痛から震えおののいたのであった。身の毛もよだつその様相について語ることなどできない。そしてこの恐ろしさを見ずに済んだ者こそ、まさに幸いなる者と見なせよう。・・・・父は子を見捨て、妻は夫を、兄は弟を見捨てた。誰もが病気の相手を逃れて立ち去った。この病気は、病人の息を吸ったり病人と目を合わせるだけで罹病するように思われた。こうして人々は死んでいった。」43p(シエナ年代記・アーニョロ・ディ・ツゥーラ)シエナは半数の市民を失った。
作者不詳のベネチアの風景は「多くの人は相当な代償を払って、聖職者の立ち会いもなければロウソクも灯されないままに、あわれな貧民に埋葬された。実際、10万人が死亡したベネチアでは、船が相当な値段で雇われて遺体を島に運んだ。市内は無人同然であった」44p。
「医師の死亡は他の人々より多かった。おまけに、私がこの目で見たし、またほかの地域からも聞いていたように、都市の有力者まで命を落とすようになった。これは今度の疫病のおかげで薬がもはや誰にも見つからなくなったためである」(司教座聖堂参事会員 ジョバンニ・ダ・ダルマ、1348年)
*エボラ出血(2014年から)の場合患者数28,512名、死者11、313名。厚生労働省のエボラロードマップによれば医療従事者感染592名、死者340名。
大西洋側のボルドーにペスト菌が到達したとき、そこはイギリスやキリスト教徒の三大聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラの移動起点。そしてとうとうパリへも1348年到達。当時の人口は8万~10万(別な説で31万)
きょうはここまで、次はイベリア半島やドイツ、オランダ、オーストリア、イギリスへについて追いかける。この「ペストの歴史」は時系列的なペスト伝染の年代記にもなっています。
第3回は2月2日予定です。
匿名
伝染病や大災害、戦争で人類は淘汰されてきましたが、歴史は繰り返すのでしょうか。病気名を変え、地球の環境を変え、核の脅威、紛争など現代もその要素は十分にありますね。明日の事は誰にも分りません。もしも明日地球人類や生物が死滅するとしたら僕たちは今日一日何をして過ごしたらいいのでしょう。明日でなくても近い将来の事がある程度読めれば生き方も変えなければなりませんね。何も考えずのんびり過ごすのか?それともやり残した事を必死にやり遂げるのか?見えない敵「細菌」も抵抗力をつけて進化して近くに迫っているのでしょうね。