「地を這う祈り」と「最貧困女子」(2015年5月16日再録)
「地を這う祈り」と「最貧困女子」
「見たくないものは、見えないことにする」という姿勢が、「えっ、いまの時代にそんなことってあるの?」と驚いて見せたりする。自分にとって不愉快なものは、目をつぶって(スルーして)生きていく。目をつぶってもそれはそこにあり、そこで生きている。
最新のテレビや流行やファッションやスイーツや車や観光地の話やエトセトラ。戦争という言葉も、それは具体的に死体の山であり、飛び散る肉片の残骸だったり、思い描きながら語っているのかどうか。描く想像力が欠如しているからペラペラ語れるのか、また自分は安全地帯にいて絶対死なない確信持ってお喋りに講じているのか、大いに疑問だ。
それに似たことが「貧困」や「ストリート・チュルドレン」の実際にも言える。「地を這う祈り」は、目次を出すだけで内容を想像して欲しい。●スラム●少女売春婦の死(路上の性愛)●台車の老婆(食生活)●病気のドラッグ売り(薬物依存)●ゴミの中の胎児(廃品回収)●路上の恋文屋(大道商人)●テロリストの墓(紛争地)●檻の中の子供たち(障害者施設)●路上の神様(祈り)。石井光太さんが写したカラー写真と文章が約200ページにわたってついている。
世界最貧国の都市の表通りと裏通りを描いている。彼自身も身の危険を感じながら取材している。国というから、彼らに何かを差し伸べる、福祉を提供して生きるのを助けるという機能が全く働いていないことに、憤りを覚えながら、最貧国であるがゆえにとてもお金がそこまで回らない。日本の特派員も簡単に行ける場所なので、彼らもたぶん著者の石井さんが目撃した悲惨な風景を飽きるほど目にしているはず。しかし、それを、本社に送っても写真の掲載は不可になりそうなものばかりだ。そして、もう1冊「最貧困女子」(鈴木大介・幻冬舎新書)。
「家庭の縁」「地域の縁」「制度の縁」の三つの縁が切れて、生きるためにセックスワーカーへ吸収されていく少女(女性)たちを20余人ルポして歩く。家庭の中での虐待から家出、相談する友人もなく、路上へ。そこに手を差し伸べる同じ境遇の女性や性ビジネスの男たち。社会福祉の詳しい制度も知らない。取材経費を使うので、風俗を経営する男たちにも取材ができている。余りの救いのなさにライターも精神的な限界を感じながら、悪戦苦闘する。
「助けてください!」と言える人と言えない人、同じ痛みでも、言えなくて放置されている人を見なくてはいけないと著者は言う。「ここで、懺悔するならば、僕は逃げたのだ。彼女らを取り巻く、圧倒的な不自由と、悲惨と壮絶から、僕は尻尾を巻いて逃げだした。そこにあったのは、考えても考えても救いの光がどこにあるのか分らない、どう解決すればいいのか糸口も見えない、そんなどん底の貧困だった」(56p)。
取材途中、幼子を残して自死したシングルマザーもいた。この本は、「精神障害・発達障害・知的障害」にも目くばせする。そうすることで「貧乏でも頑張ってる人がいるとか、貧困も自己責任だ」という無理解な人の考え方を払拭できると考えたのだ。
PS この最貧困女子のブログを書いてちょうど1年余。状況は昨年より悪化していると言う。
匿名
再貧困女子は日の当たらないところで風俗業などで暮らしているのだろうが、そんな場所に遊びに行く男たちには、その実態は見えないのだろう。そんな女子たちをビジネスの商材にしている更に悪い元締めたちの格好の餌食にされ、薬漬けにしたり、脅迫で精神までもコントロールされ逃げ出す気力さえ無くされ泥沼に落とされていくのだろう。病気など発症しても都合が悪ければ誰も責任を取らず放置され、やがて疲れ果て絶望の中で命まで絶つ事にもなる。自ら選んだ道ならまだしも、弱みに付け込まれ、そんな世界に生きる女子たちを生んでいる社会を作っている男たちの心の貧困さこそ救いようが無い。違法がまかり通るザル法では網目が粗すぎる。しかし、酒の勢いで無意識に風俗に通う男たちと、それを誘う男たちが、花金の今日も盛り場をうろつくのだろう。