イソップ物語(捕虜になったラッパ吹き)
久しぶりのイソップ物語です。岩波少年文庫「イゾップ物語」
軍隊の集合ラッパを吹いていたラッパ吹きが、敵につかまえられてこうさけびました。「みなさん、考えもなしにわたしを殺さないでください。わたしは、あなたがたをひとりだって殺していません。このラッパのほかは、なに一つ持っていないのです。」すると敵は、ラッパ吹きに言いました。「おまえは、じぶんでは戦争ができないのに、みんなを戦争にかりたてるから、よけい、殺されるのはあたりまえだ。」(河野与一訳 114p)
イソップは紀元前6世紀ころいた人(架空の人間だという学者もいる)らしいので、この物語の意味するところは深くて、普遍的な気もする。筆者は小さなころから集団で行動するのが苦手であった。幼稚園もルーテル教会でお昼ご飯のお祈りを皆でするのが嫌で退園した。行進も嫌だった。「右向け右」という、軍隊的な号令をかける人間(教師やクラスの委員が多い)のあの威張った表情は吐き気がした。3歳や4歳は行方不明になっていたらしい。ほとんど近所の映画館の真鍮の手すりに掴まって映画のカット写真を見ていたらしい。いまも落ち着きのない多動症の性格は、もう幼少期に植え付けられている。と、居直る私である。
イソップの話に戻ると、新約聖書の最終章「ヨハネの黙示録」も7人の天使のラッパが出てくる。ヨハネ黙示録の完成がAD69年~同96年と言われている。ローマ帝国を扱った映画でもギリシャ神話を扱った映画でもラッパはよく使われていたからポピュラーな楽器だった。喇叭(らっぱ)と漢字で書く。
そこで、このイソップ物語のラッパ吹きだけど、現代、このラッパ吹きは誰だろうと想像しながら読んでいる人も多いと思うが、私は言葉を話すすべての人がラッパ吹きに成り得ると思う。表現手段(スマホ・携帯・パソコン・テレビ出演・政治・立法できる立場に立つ人など)を持っている人はそれを活用して「他人を動かす、他人の頭脳に観念を吹き込む、他人に影響を与える」生き方が選択されていて、自分自身を第三者的な視点で見直す作業をしないと、たぶんどこまでも流されることになると思う。
そうならないために必要なことは、自然と相対時する時間を増やして、できるだけ「意識」や「言葉」の世界を離れることかもしれない。
地球上に繁茂したラッパ吹き、独裁者からマスコミまで。声の大きい人が勝つ世の中になってしまったものであるが、真実は声低く語られる(林達夫)。東京オリンピックも必要ないと思うし、もうあちこちの都市でオリンピック開催は止めた方がいい。近所の奥さん方3人に聞いたら、全員「必要ない」です。そういう声は届かないか。ニュースはすべてオリンピックありきで報道されて、どの局も「返上を考えてもいいのでは」と発言しない。たぶん私同様、都民でも「オリンピック反対」「なぜ国立競技場を壊してしまったのか。もったいない」と思ってる人は多いと思う。先日、気味悪いオリンピックロゴがキッコーマン醤油のカラー全面広告に掲載されていた。食品の広告には合わない。
ホランペッター。
オリンピックとラッパで思い出したが、吹奏楽でコルネットやトランペットを吹いていた僕も、かってはラッパ吹きの一人だった。高校野球の県予選大会には炎天下のスタンドで、市のお祭りにはマーチング・バンドでこれまた炎天下での行進に駆り出された。そんな時の報酬はアイスクリーム1個だった。敬老の日には講堂に集まったお年寄りの観客の前で喝采を浴びながら演奏した。確かにトランペットなどのようなラッパは大きな音で注目される楽器だ。しかも電源を必要とするアンプで増幅しなくても十分だ。そんな手軽に携帯できる楽器だから、昔からラッパは軍隊などでも使われたに違いない。その増幅音からか、ラッパ吹きは「ほら吹き」とも言い換えられたりしていた。僕の高校でも同じ苗字の教師の一人は、生徒の間で「ラッパ」と言うあだ名をつけられていた。
ラッパに多数蹴られた
イソップ物語は、子供にそのまま聞かせるには残酷な話しが多いが、的は射ていると思う。ラッパと言われたくはないが、自分のトランペットが欲しくって初給料でとうとう手に入れた。仕事が休みの日にケースを下げて河川敷に行ったり、都会では練習場探しが大変だった。殆どカップミュートを装着して音を殺しての練習だった。仕事を変えて、それにも飽きていた頃のある日、バンドに誘われた。夜の心斎橋のクラブでのステージを二か所担当した。都会のど真ん中のビルの屋上は騒音の方が大きく恰好の練習場だった。転職の隙間にこのトランペットは助けてくれた。その後、転居して音楽から離れたが、今度は質草となって、生活に困っていた僕を何度も助けてくれた。もちろん流さずに引き取りに行ったが、暮らしが安定してくると、つい縁遠くなってしまっていた。結婚して子供たちの手で壊されてしまった。僕にとって大切なトランペットも、子供たちにとってはオモチャにしか過ぎなかったのだろう。最近、楽器店のショーケースの中を時々覗いて思い出している。僕はラッパに何度か助けられた。
影の指揮者。
起床ラッパ、進軍ラッパ、撤退ラッパ、どれもラッパ吹きは先頭に立たなければならない。身の危険にさらされながら。しかし命令で動いているにすぎず、ただの伝達係だ。ラッパ吹きに命令している奴は一体?誰なのか。大統領っ戦で大口叩いている立候補者も、参院選で立候補の街頭演説者も、ラッパ吹きに過ぎないのかも知れない。いずれも陰で操る奴がいる。彼や彼女たちのセリフは全く別の人間の作文を暗記したり、時々チラ見で読み上げたりしている。国会だってそうだ。時には、おバカな政治家が失言で失笑を買う事もあるが。