生まれ落ちた人は、国や家庭や性別や階層を選べない。生まれた場所の既定の世間的な位置とか価値観とか、両親(片親であっても)の収入や職業で、また話される言語の種類やしつけの有無(尊敬語で喋る家庭や命令口調で有無を言わせず従わせる家庭もある)で、3~4歳の一番大事な時期に、大脳にシャワーを浴びてしまう。


生まれたばかりの子供を観察していると、言葉を話し始めると、恥じらいや嘘が出てくる。しかし、自分を思い返せば、現在、その子供の人格形成に一番大切な4歳までの記憶が自分にはないから、4年間、どういう育てられ方を親からされたのか思い出せない。当時はカメラも高価で家にはなくて、ようやく4歳ころの写真が1枚あるだけだ。空を飛行機が飛んでいて、玄関口で空を見上げている写真だと父は言う。


私の入学した小学校は札幌駅北口側の北12条から北18条くらいまで西側は北大に挟まれたエリアに住む住民が入る学校で、地主以外は皆貧しい家庭ばかり。いまも歩くとその面影があり、両親が新婚生活を始めた貸家は現在も残り、北大ボート部の倉庫に使われていた。今もそこを歩くと胸がキュンとする。


学校の先生は両親からみたら「疑問の余地なく偉かった」ので、先生への批判は聞いたことがない。この教師への批判は実は、親からみたら私たち兄弟が大学へ入ろうが、結婚して孫ができようが、その孫が小学校へ入ろうが一切なかったのを思い出す。特に戦前の軍国主義教育を受けて、戦地に赴いて引き揚げてきた父にしてみれば、戦後の民主教育は夢のような、自由でもう戦争へ向かう教育ではなくて、平和の構築と貧しさから豊かさへ、定年したら退職金で郊外へ庭付きの一戸建てを持つという夢の中で生きてきた。そして実現させた。


教師批判が始まったのは1966年頃から高校で「制服や制帽の廃止」「既存の押し付け・管理教育に対する反発」としてまず出てきたので、考えてみると竹刀を持って生徒を睥睨していた体育教師と英語教師、往復ビンタをくらわす生物の教師など3~5人を除いて、教師への尊敬は消えていなかった。先生はまだまだ偉かった。彼らへの言葉づかいも敬語を使っていた。


それが、市内で一番の進学校で高校生の氾濫があった。大学における全共闘運動(国立大学解体を目指していた)である。戦前の軍国主義教育に果たした東大を中心にして国民を戦地へ煽った国立大学、西田幾多郎はじめイデオロギーとしての京都大学哲学科の果たした役割など、日本の高級官僚の培養地としての国立大学を解体しないと、また同じことが繰り返されると危機感を持ったわけだ。


進学校の高校では「校長先生が校長室に閉じ込められ」機動隊が入ったと記憶する。ベトナム戦争への猛烈な批判も重なり、文部省ご用達の教材での授業にも当然批判も出てきて、自主的な教科書も出版された。しかし、激しい運動家がいる一方、勉強や優の数を稼いで希望の学部へ行き(文系は経済・法学・文学・教育)へ1年半の教養時代の優の数で優先的に希望学部へ行けて、法学部が難関だったらしい。私はチンタラ、ノンポリで古本屋巡りと本ばかり読んでいた学生だった。文学部はどういうわけか次男坊の多い・世間を斜めに見る・へそ曲がり集団学部であった。


 

  1. 夕べ、我が家の中一と話した。体罰についてだった。なんと今では教師が威嚇しても恫喝しても体罰?だと言う。悪い生徒は図に乗り、どんどん悪くなるばかりだ。叱ってはいけない教育らしい。親も甘く、学校では教師が生徒の心に踏み込めない状況下でありながら生徒には小馬鹿にされ、クレーマーの父兄たちにも気遣う情けない教育現場になっているようだ。僕たちの時代の話をしたら、彼女は驚いていた。教師の差し棒は叩くためにあり、革靴を切り裂いて作った鬼の教頭のスリッパもビンタの道具だったと。悪さをすれば、水入りの掃除用バケツを両手に持たされ廊下で授業を受ける事もあったが、難しい問題に答えると許され教室に戻された。子供たちも先生を尊敬もし、怖い先生には怯えていたが、生徒同士が陰で教師たちの悪口を言う以外、家庭にまで持ち込まなかった。叱られたり、体罰を受ける理由は、自分たちにある事を子供ながらにも、わきまえていたし、親に言おうものなら今度は親にこっ酷く叱られた時代だったからだ。叱る事も、ほめる事も教育の時代だった。当時の教師の体罰だって、子供たちに大ケガをさせる気では無く、多分手加減していたのだろう。そして子供たちも、今で言う体罰を体罰とは感じて居なかったと思う。優しい大人たちを育てるには、今の教育がいいのかも知れないが、その逆を行く大人たちを育てる事にもなり兼ねないのではないだろうか。

  2. 我が家には、中1女児1人、小4の双子男女と、小2の女児1人の4人が居るが、手に負えない双子の男児が悪ガキで困っていた。悪さをするのは、自分の子供時代と全く同じだと気づいたが、とにかく我が家の問題児だった。僕に「お前は出ていけ!二度と帰って来るな!」とまで言わせた程だ。ところが、そんな或る日、何故か急に野球がやりたいと言い出した。どうせ三日坊主に決まっていると思いきや、なんとあの朝寝坊が早朝5時半からの朝練に自主的に起きて、土・日・祝日には朝8時から練習と試合に出かけるようになった。ユニホームを着て、グラブと金属バットを入れたリュックを背負って自転車でさっそうと出かける姿を見て、意外性を見つけられなかった自分に反省をし、少年野球の監督や、それを支える父兄たちに感謝している。練習でのチームメートや他流試合での相手チームの選手たちと自分を比べる事で成長しているようだ。指導者と仲間たちが彼を教育してくれた。スパルタではないが、これくらい厳しい指導も必要な時期は誰にもあっていいと思う。

  3. 現在小2の女の子を育てる為に、小さい時から「誉め殺し教育」を実践している。実に素直に育っていて、今では我が家で一番いい子になった。家の手伝いはするし、片付けもする。勉強も自主的にやり、PCで遊び、良い友達とも活発に遊ぶ。絵を描けば誉めて、日記や感想文を書けば誉め、手伝いをすれば誉め、叱る事は殆どしない。こんな誉め殺し作戦も男の子には通用しない。小4の男の子には「叱る教育」を実践している。男の子は少し逞しく育って欲しいから、時には、学校ではしない体罰もする。勿論、虐待などではない。

  4. 今や教師も割に合わない職業となった。甥っ子も京大を卒業して大阪は吹田市で中学校の教師をしている。小学校、中学校、高校と、優秀校をトップで卒業したが、最終的には教職に就いた。詩人で、温厚な性格の彼は、果たして都会の中学校で通用しているのか心配になる。生徒に対する体罰問題などの心配はないが、近年荒れている学校が職場となれば、ストレスも相当なものではないかと推測する。頭脳明晰な彼の事だから尊敬される先生を演じて居れば良いのだが・・?

  5. 義弟の嫁は教頭先生だ。何と、最近は会って居ないが、僕の幼い時の女ともだちは校長先生だ。彼女たちは同じ県内の教育者で、とても仲良しだと言うから驚いた。世間は狭い。きっと僕の悪ガキぶりを告げ口されているのだろう。政治も教育界も、女性がリーダー格になっている。今更、偉そうな方々が女性社会などと言わずとも、とっくに利口な女性は社会進出を果たしている。でも、大抵は親が校長などの教職者の場合が多い事に気づいた。子は親を見て育つわけだが、親たちの立場の様になりたくて努力して教育者になっては見たものの、当時の親たちの居た教育環境と現代では大きく変わってきているのだろう。

  6. 教育は家や学校だけのものではない。部活や寮生活などの方が人間形成に影響を与えていたりもする。部活には尊敬できる優秀な先輩たち、寮には優秀な寮長と舎監の先生が、親に代わって、動揺する青春時代の僕たちの牽引者となっていたし、社会に出ても、これまで歩んできた要所要所に影響を与えてくれた人たちすべてが僕にとっては教育者だ。アルバイト先の工場長も、アパートのお隣のおばちゃんも、近所の大工の棟梁も。

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