弱者が生き残る世界・・。ハクチョウを見ていて。
弱者といっても何をもって弱者とするかで考え方がずいぶん違う。これは時間の経過を見ないと全然わからないことである。(1)金銭面で、(2)健康面で、(3)仕事面で、(4)学歴の面で、(5)どこの国や民族や家庭に生まれるか。実は弱者がこれから生き残っていくと考えるのはどうだろうか?
きょうは筆者の仮説や希望を込めて『弱者が生き残る世界』を書いてみた。『大は小を食う』と生き物の世界は、生き死にははっきりしいる。しかし、そこに共生関係もある。人間の体の中も何百何千と言う細菌(こんな数ではないが)に胃や腸の壁に付いていて消化の働きをしたり、白血球がウィルスを食べてくれて体を守ってくれている。すい臓のランゲルハンス島から分泌される消化液がないと、食べたものは細かく砕かれて胃腸の壁を通して血液中に溶け込んでいかないと、体を作る栄養素にならない。
私たちの目に見えないところで、自分たちを生かしてくれている世界は巨大だ。人間の社会も、都市が形成されると暮らしのライフラインが集中化して、それを維持するために無名のたくさんの人たちがいる。小さな村なら水や食べ物、火を守り、いまは太陽電池のランタンをつけて文字を読んだりする。
札幌は地下都市・モグラ都市とも言われて、冬の対策として地下を充実させた。しかし地下は水道やガス、下水、電気のケーブルが縦横に走り、日常が維持されているが、都心で食べ物を作るわけではなく、オフィースから昼休み、吐き出される人々を見て、具体的な人間というより何か抽象的な記号、首からIDカードをぶら下げた弱い存在として見えるのは私だけだろうか?
養老猛司さんが、都市は意識の産物、言語と観念から作られたと喝破したが、私の年齢になると郊外の自然の中に入るとほっとする。何があるというわけではないが、ひんやりした空気を味わいうっすらした月を見て木々の呼吸と鳥のさえずりを五感で感じて、晴れた日はシベリアから来たハクチョウが苫小牧のウトナイ湖へ隊列組んで鳴きながら南下する。国境線問題もなく、戦うこともせず、飛んで食べて生み育ての一生を繰り返す。
同じ風景を見ていた近所の60代の奥さんが『ハクチョウの渡りを見ると感動する。声が聞こえるとすぐに外に出るんですよ。人間、彼らから学ぶものがありますね』『ほんとそうだね』と私。『自然には嘘がないですよ』。『近くの酪農用のトウキビを全部収穫しないで、彼らのために刈り取らず、残している農家も千歳にあるんですよ』と教えてあげた。
育ちの良し悪しもなく、学歴もなく、お金を稼ぐノルマもなく、電気や移動手段の交通機関も必要なく、スマホや携帯やパソコンでゲームをしたり、読書や映画もなく、知識といえば植えつけられた方向指示器に従って、子供のハクチョウは強い風に当たらぬよう先頭になって飛ばない優しさの知恵はあるみたいだ。これはきっと本能だね。
結局、こういう太古から繰り返して生きてきた生き物たちが、人間より長生きする、強い生物ではないかと妄想する毎日である。空を飛ぶ飛行機が強いと思うだろうけど、どっこい、自然の鳥たちのほうが正確で事故が少ないのだ。自然の凄さ(一番実感するのは自分の肉体という自然だ)を今一度反芻したい。
昔、学んだ17世紀のイギリスの経験論哲学者フランシスベイコンに(自然は掃いても掃いても還ってくる)という言葉に20代前半に感動した覚えがある。どんなに人間の知恵が発達しても自然の淡々とした営みに勝てるわけがない。地球上で起きる自然災害は、たとえ人災の要素がある災害もあるだろうけど、自然の勝手である。自然からみたら(人間は全員、弱者なのである)。