無名の人々について(2年前の4月15日)
無名の人々。(2015年4月15日)
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『市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつことよりも自分が接する家族と文句なしに気持ちよく生きられたら、そのほうがはるかにいいことなのではないか、そんなふうにぼくは思うのです』『個人のほうが国家や公より大きいんです』『何が強いって、最後はひとりが一番強いんです』(吉本隆明・・NHK教育テレビ・戦後史証言プロジェクトより)
見えない人々、いまだお会いしたこともない人々、生まれた人、亡くなった人、特に名も残さず有名人にもならず、物を書きもぜず、残さず、思い出の写真を何枚か家族に残して世を去っていった、そして歴史を作るぞと言ってつくるわけでなく、テレビや新聞に出ることもなく、たんたんと日常をこなして、家族が集まれば「笑いのひとつもある家庭をつくって」暮らす人々へ、吉本隆明からの応援歌と読めるのは私だけだろうか。道を歩いていて、誰からも注視されることのない自由感はたまらない。「自分が接する家族と文句なしに気持ちよく生きる」ことができたら、またそれを壊す外的な事件や権力に歯向かえる言葉と腹があれば、もっと自由な、市井の人々にとっても生き易い社会になるだろうと思う。アメリカの西部開拓を目指しながら斃れていったフロンティア・マンたちの廃屋をテーマにして書いた詩・・・。
つぶれかけた、からっぽの小屋は、
彼らがすくなくてもここでは、
敗残の人たちであることを物語っている。
しかし、その敗残のうえに、
わたしたちの成功は築かれている。
都市も、町も、すべて
農場も、蜿蜒(えんえん)とつづく道路もすべて
彼らが敢えて挑み、そして敗れたからこそ、在る。
多くの人たちの敗残で贖(あがな)われずに、
人間が手にしたものなど
いまだかつてありはしない。(アンナ・ルイス・ストロング)西園寺公一訳
戦後70年を迎えて、天皇陛下がペリリュ島へ墓参に行った。NHKで昨年「狂気の戦場ペリリユ島~忘れられた島~」を見た。奇跡的に生き残った兵士が「絶対に戦争だけは起こしてはいけない」と断言。軍国少年だった吉本隆明は、戦争中は「それゆけ、前へ進め、死など恐れるな」と旗を振った人々、マスコミ・教員・インテリなどの戦後の豹変ぶりに、激しい怒りを覚えた。それが「個のほうが国家や公より大きんですよ」という発言に向かわせた。その個が果たして、本当な個であるのかどうか?
平和ボケ。。
昭和を馬鹿にされる時代だが,長かっただけにいろんな事があった時代だと言える。平成になって,もはや30年にもなろうとしているが,今のところ平和が続いていた。しかし,ここに来て核戦争とか細菌兵器など物騒なニュースの聞こえて来た。
名も無いアンビシャス。
比較的歴史に浅い北海道は名も無い先人たちの力を感じるモデル的存在ですね。本州あたりの地方都市は歴史もさることながら,地域の慣習などでがんじがらめになっていて窮屈な社会構造になっています。その点でも,北海道はシンプルですね。北海道に限定すれば,ルーツもハッキリしていて,開拓当時の先人の苦労も推測できます。今の北海道があるのも,名も残さず築き上げた多くの人々の力ですね。あちこちに銅像になっている歴史に名を刻んだ人だけではこんな偉業は達し得ませんからね。
普通の人々。
親の生き方を「つまらない」と思った事がある。しかし自分が親となれば,その苦労も理解できるようになるものです。関東大震災,戦災。そして疎開,最終的に田舎暮らし。兄姉たちは知っていても,末っ子の僕は田舎暮らししか知らない訳で,その部分だけで親を批判していて中学卒業後には,家を飛び出したのです。しかし一人になれば親のありがたさも身に染みて感じましたね。今では,親も他界して居ませんが,あの時,親を恨んだ田舎暮らしも,今では貴重な体験だったと思っています。貧しい暮らしでも思い起こせば幸せな幼少期だったと思いますね。そして周囲の人たちも子供たちには優しかったですね。そんな普通の人たちに守られて,今の自分たちがあるのでしょうね。今度は僕たちが,そんな「普通の人たち」にならなければいけませんね。
普通の指導者。
あの戦争で負けて,現在があるのですが,今も世界では各地で戦いが繰り返されていたり,何時起きるかも知れない新たな戦争の火種が今,話題になっています。かつて戦争を仕掛けた我国が,今度はとばっちりを食らいそうな状況下に居ます。このままで平和を維持するには,世界中を鎖国にするか?指導者たちを「普通の人」にすげ替えなければいけないでしょうね。