楽に人生を生きる方法は・・・?(2016年1月30日) NO777
モタさんの言葉。相手への要求水準を初めから低く設定・・!
「相手への要求水準を初めから低めに設定するのが」人間関係をスムースにするいちばんの方策だ。2006年に亡くなった精神科医斉藤茂太さん「モタさんの言葉」(講談社)71p。結婚にしろ、もともと他人同士が暮らすのだから、50%の満足度でいいと。腹八分目主義を貫いた彼の人生観だ。
だから、人間関係をスムースにするには、初めから相手に対する要求水準を低めに設定すればいいんだと。これは自分の感情や気持ちの高ぶりや失望感でわかること。何度も繰り返すうちに、相手への要求水準を低くすれば、不信感や怒りの感情の渦へ巻きこまれないで済み、気持ちの平安が保てるというわけだ。配偶者はもちろん、子供や近所付き合い、仕事関係でもこの原則を貫くと気持ちよく生きられる。
「圧倒的多数の人は平凡で、世間にふれ回るほどの才能やとりえはないかもしれない。でも、そんな自分でも、悪事をなさず、多少は人さまのお役に立ち、家族と生きている・・と思おう」なんだか相田みつをの言葉と重なってくるようだ。似たような言葉でモタさんのメモ「毎日、大した仕事をしていないところに男の本当のえらさがある」(柴門ふみ)も引用している。
毎日、通勤しているだけでも凄いと、うれしい限りの言葉だ。成果主義や効率主義や費用対効果、選択と集中や企業の資源の分配やら、対前年売上比の表やら、新規事業の立ち上げやetcに関わってきて、大した実績も残せず定年を迎えた筆者にすれば黄金の言葉の数々であった。
特に、相手への要求水準を低く設定する、ということは親(特に母親やそれなりの地位についた父親)が総じて陥る、子供への要求の高さ(期待)と失望で出てきやすい。学校や勤める企業、後々、結婚する相手の家族歴詮索行為とか、結局、親自身の見栄が子どもの未来を潰すケースが身近に本当に多い。
自分の場合も娘の結婚のときに悩んだが、分析すれば自分の見栄が勝っていただけということに気づいた。相手への期待値を下げると、ラクラクな人生を歩める。しかし、その分、自分が頑張り過ぎて病気にならないよう気をつけましょうね。ある企業の営業マンが筆者に「数字のない部署へ行きたい。毎月、売上に追われるのはコリゴリ」と。まだ29歳だ。「早く定年を迎えて年金生活をしたい」。「人生はプロセスなんだけど。何もしていないじゃないか?」と私は彼に何度も言ったがわかってくれただろうか。
両親から「無いものねだりはしないでね」とよく言われた。〇〇が欲しいと言ってもお金がないから買えない、無理難題を言いなさんなという意味が、この年齢で実感するとは筆者も幼稚な人生観で生きてきたものである。
初めから相手への要求水準を低めに設定する。「あの人、約束を反故にしたり、よく遅刻するんんだよ」と思えば、文庫本をカバンに詰めて行くといい。イライラしないで済む、心身の病気の予防でもある。
追記:しかし、楽な人生ってそもそもあるのかどうか?ひとりひとりを見ていると山アリ谷アリで、それなりに越えてきて今があるので。楽と思えるのは、現在が楽な暮らしを維持しているから、昔のことが『楽なように』意識されるだけかもしれません。たくさん遺産の分け前に預かれば、乱暴なお金の使い方をしたり、ドけちにはまったり、お決まりの修復不可能な兄弟喧嘩になるのが世の常。子供に大金を残せば毎日働き、稼ぐのがバカらしきなるみたいで(そんなご身分になってみたい)と多くの人が言うけれど、実際になってる人に聞くと、世間のやっかみは凄いですよと、そのストレスで目を赤く晴らして筆者にこっそり教えてくれたので書いておきます。2017年4月30日。
楽あれば苦あり。
楽あれば苦あり,幸せも不幸も,おおよそ半分半分なら上出来ですね。実際には,幸せは瞬く間に過ぎて,不幸はいつまでも続くものです。その不幸の中で少しでも楽に生きようと言うわけでしょうね。お金をかけられない幸せとは,笑って暮らせる時間を持つ事くらいでしょうか。どうせ人生は短いですから,ムリしても苦しむだけですね。
昔の名前で出ています。
過ぎてしまえば「笑い話」ですが,当時は大変な思いをしたものです。若いから出来たのでしょうが,あれほどの向こう見ずな冒険はなかなかできませんね。青函連絡船で何のあてもない北海道に真冬にギターと布団しか持たずにやって来たのですから。その日のうちに住まいを見つけその日のうちに契約してその日から寒い部屋で眠れず朝を迎えましたね。右も左も言葉もわからず,一体どうしょうと言うのか先の見えない暮らしが始まったのでした。住めば都で今ではすっかり気に入って他に移り住む気にもなりませんね。辛いことも食えない時代も今では,いい経験をしたと思えますね。あれだけ嫌いだったサラリーマン生活も,あれだけ苦手な営業活動も何とかこなしてきました。他人を恨んだり,恨まれたり,憎んだり,憎まれたりもしましたが,みんな些細な出来事でした。そんなしがらみも気にしなくなれたのも,辛い経験があってこそですね。
seto
すごい無鉄砲な北への旅だったのですね。しかも夏ならまだしも冬、知る人おらずですか?
私は愛知県岡崎市へ漂白を6ヶ月しましたが、無一文になり、実家へSOSでお金を送金し
てもらい帰宅しました。情けない。
親達の時代は幸せだったのでしょうか?
それも,無鉄砲な部類ですね。みんな若いときにしか出来ない事の一つや二つやってるんじゃあないですか。僕などより父親のほうがもっと強烈でしたからね。長男で有りながら田舎から家出して,京都に行ったり,外国航路の貨物船で働いて,中国に上陸して一人で歩いていると中国人に石を投げられたとか,全国行脚で陶器の修行とか,小樽や美瑛にも住んだとか。もちろん実家との連絡も無しですから,お金も稼ぐしか手が無かったのでしょうね。でも戦時中の空襲を東京で経験しているところは大きな違いがありますね。しかも家族7人とともに生き延びたわけですから。