ガラスの家

恵庭道の駅ガラス張りレストラン

 

高校に入ると、芸術の選択ということがあった。小学校1年のときに図工という科目があって「下」を付けられた。「上」の成績が5と4、「中」が3、「下」が1と2だ。そのころは絶対評価の時代で、クレヨンの絵の私の才能や工作もだめだったらしい。

中学の美術は水彩画で、美術部が使う油絵の道具の匂い(シンナーなんだけど)にうっとりして憧れていた。高校に入ると、待望の油絵を描くぞと張り切った。最初の授業が、お決まりの花瓶と花の模写だ。美術教師Tが絵を描いている私の後ろに来てこう言った。「芸術の選択を間違ったのでは?書道か音楽の方へ変わったらどう?」。愕然とした。もう少し、言い方ってあるのでは。

私も意地になって成績は悪いけど美術で通した。担当もTが異動して違う教師になったのもよかった。50年経過しても、この日の事件は忘れない。何かをしたくてもできない、ついていけない非能力って世の中にたくさんあるね。これは努力でどうなるものでもない。先日、NHKで将棋の羽生さんとチェス名人の対談を見ていたら、二人とも努力に力点を置いて話していたけど、違うよね。才能の違いって、どこでどう出てくるのか。

遺伝子の話が出てくると、そこで思考はストップだ。むしろ発生学で、大脳は腸から分離するので、第一の脳は実は腸なんだという話の方が面白い。たかが大脳は首から上に乗せられている臓器に過ぎないくらいに考えて生きるのが賢明と思うがどうだろうか。「花瓶と花」を書いた時もできるだけ似せて書こうと思うばかりに、自分の感性を捨てて、クロッキーしろ、色の選択も下手に下手を重ねたのかもしれない。

大脳偏重だったと今なら弁明できる。悩みがあったり、学校や会社へ行きたくないとトイレに入りたくなるのも、最初に反応するのが脳の前に腸なのだ。愚息が小学校へ登校拒否気味になって、毎朝、トイレへ駆け込んだ頃を思い出した。最近の医学でも、病気や気分の悪さの原因が、目だったり、鼻だったり、歯(歯周病)だったりする。心筋梗塞も歯の悪さから来るとも言われて、自分が倒れたのも歯の悪さから発病した可能性も否定できない。

ただ、顔色が黒ずんで来たら腎臓か動脈内を走る血液内の酸素不足だから気をつけて。私の体験です。ところで、絵の話だったね。私にも待望の孫ができて、あまり可愛いので1歳の誕生日にクレヨンで彼女の似顔絵を描いた。そうしたら、大絶賛、ブラボーの絵になった。「愛情が溢れている」と妻。「パパは絵は下手と言ってたけど、この絵はめちゃくちゃ上手。帰るときにもらっていく」と娘。50年後、逆転ホームランを打った気分だった。

  1. 僕の同窓の友人の兄貴がデザイナーで、その兄貴は大阪芸大出の音楽部の大先輩で、カネボウ本社の意匠部の外注先でもあった。彼の同業の先輩デザイナーの大先生が人を探していると兄貴から聞いていると、友人に連れられて彼のアトリエに行くことになった。真夏の大阪のマンションの一室にランニング姿のあの大先輩がいた。音楽の才能は抜群なのに何故?絵を描いているのか?見ると具象画のバラが見事だった。作品を持って大先生のところに行くように言われたので、面相筆1本、平筆1本、白・黒・イエロー・ローズ・ターコイズブルーの絵の具5色と絵の具皿とイラストボード2枚を梅田地下の画材店で買い、早速制作に掛かった。ピアノの鍵盤をモチーフにして当時僕がはまっていたモダンJAZZのレコードジャケットと花柄のパターンの2枚の作品を持参して池田市の高台にある大先生のアトリエを訪問。自慢の作品を見せた。途端!『へたくそだなぁ~?」と。ダメか~と。『へたくそのところが気に入った』と入門を許された。それからのDesign修行は来る日も来る日も大きなスケッチブックにコンテ画を描くばかり。見せるたびに厳しい指摘が。或る日『庭のバラを描いて来い』と、『風に吹かれるバラは描きにくい』と僕が言うと、『遠慮せず切ってアトリエで描け』と、『出来ました』、『石の花びらだな』、『???』。今度はレンガを渡されスケッチ。『今度は消しゴムを描け』と真新しい裸の消しゴムを。『出来ました』。『レンガも消しゴムも同じ硬さだな』と。大先生は画家出身でかなり基礎を身につけていた。どんな美術の課程より、偏屈で意地悪な大先生とのマンツーマンの不自由な数ヵ月が僕に大きな財産を作ってくれた。父の影響で小さい頃から絵は大得意だった僕の鼻っ柱を折られたあの瞬間は今でも思い出す。しかし数ヵ月後には僕もカネボウ本社に出入りしていた。その頃あの器用貧乏の大先輩の兄貴はバイオリンの製作に転職していた。音楽に戻ったからいいかと。一番力が付いたのは大先生が母親の不幸でアトリエを空けた時だった。すべては自分ひとりで大メーカーの要望を聞いてきて制作して納品しなければならない。一睡もしないで仕上げた作品を満員の阪急電車でつぶされないように大事に抱えて都島のカネボウ本社に届け、担当課長からOK!を貰ってから自信がついた。商業デザインを初めて自分のものに出来た瞬間だ。複雑な家庭環境の大先生には横浜と九州にも母親がいて二度の不幸でアトリエを空けたおかげで一人前にさせてもらえた大恩人である。僕が東京でグラフィックデザインを勉強したいと願い出ると『いいよ。やりなさい』と意外な理解をされ方に驚き嬉しかった。レンガと消しゴムを見るたびにあの頃を思い出す。モノクロの線の強弱や太さだけで光や影や質感をあらわす事が出来るデッサンの方法は子供たちにも教えてあげたい。

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