札幌市の向こう2年間の自殺対策。
自殺について(札幌市の場合)
追記:下記のシンポジウムも30代の札幌市の職員が活躍してメンバーをそろえて素晴らしい会議にしてくれた。終わった後、熱のこもったいい会議に筆者はお礼を述べた。
先日、札幌市のこれからの自殺対策を考える会議を傍聴する機会があったので行ってきた。札幌市は1年間に320人前後の自殺者があり、1日約1名の人が自殺している。当日は、精神科医や看護士の会、大学の精神科医、いのちの電話にかかわる人、自殺者家族を支える会や、精神病院を経営している人、大学で学生の精神面をケアしている人、道警本部、患者を搬送する札幌市消防局、それに札幌市医師会、北海道医師会の関係者が出てきて、全員が公平に自分たちの立場から、昨今の自殺事情や未遂の多さや家族関係、イジメや社会構造、雇用問題、周囲の無理解、マスコミの報道の仕方にまで言及してなど思い思いに語っていた。この2時間をNHKの教育テレビでそのまま放送しても全国で反響を呼ぶ番組になったのに惜しい。1年間に「いのちの電話」を利用する人が札幌市で1万1000件、そのうち「死にたい」コールが2000件との発表もあった。若いときは「死ねば楽になるわ」と感じることは誰しもあるが、友人たちと遊んでいるうちに消えてしまう。
林達夫のエセイに「子供はなぜ自殺するか」という文章がある。(思想の運命 中公文庫 278p)この中に、*ニール*という教育家が、「何が子供を病的にするか」に答えて「それは多くの事実についてみれば、両親の不和な場合である」「病的な子供は愛を求めている。それなのに、家庭においては愛がない」ルナールの「にんじん」という本も両親の不和から作られた「愛なき」家庭の不幸な所産であり、同時にその受難である・・・とする。「あんまり不幸だと自殺する子供もある」(にんじんの言葉)。にんじんのお父さんが話す言葉・・・
ルビック(にんじんの父):お前は生まれてきたときは、お母さんと俺との間はもうおしまいになってたんだ。
にんじん:僕の生まれたことがパパとお母さんを仲直りさせればよかったのになあ。
ルビック:駄目だ。お前の生まれた時はもう遅い。お前は俺たちの最後の喧嘩の真っ最中に生まれてきたんだ。二人ともお前なんか生まれて来てもらいたくなかったんだ。・・・(同書284p)
話を筆者が傍聴した会議に戻せば、統計上、昨年は自殺者数が3万人を割ったと言っているが、実は死因不明や引き取り手のない遺体が全国で多いと道警の人が発表していた。それをも自殺者と考えたら決して減ってはいないのである。最後に一言のコーナで、ある精神病院の院長から「死を美化する風潮が映像や漫画や日本文化の中に色濃く反映されていることは問題だ」「自殺報道のメディアのあり方、センセーションに扱い過ぎて、自殺は殺人同様、模倣されるので(岡田有希子の飛び降り報道で真似する子供が増えた事例を引いて)テレビや新聞の抑えた報道を促していた」。
この日は、報道席を設けたが、出席者はゼロ人だった。午後6時半開始で終わったのは午後9時を過ぎていた。NHKのEテレで、このまま撮影して番組にしても十分耐えられるディスカッションであった。生々しい討論会、会議発表であった。家族を自殺で失い、慰める会の人も、「行政が家族に踏み込んで、自殺予防の話を聴こうとしても拒否される、そっとしておいて欲しい」と行政と距離を置く人が多いとのことである。
*ニイル:アレキサンダー・サザーランド・ニイル・・イギリスの新教育運動家。「子供を学校に合わせるのではなくて、学校を子供に合わせる」という言葉は有名。