1970年11月に書かれた、森有正(デカルト研究者・哲学者)の『思索と経験をめぐって』というエセイ中(木々は光を浴びて)の最後に突如出てくる言葉だ。47年前も文章だ。森さんは夏に避暑を兼ねて北海道へ来て、クラーク会館のパイプオルガンを弾き、大好きな植物園の楡の木々を見たり、スイスの湖水を思い出させる支笏湖へ出かけて自然を堪能してフランスへ帰る。勤務地のフランスの大学で東京へ何年か留学していた女子学生と会話するうちに彼女が突如発した言葉がタイトルの言葉だ。1970年は学生運動がだいぶ下火になっていたとは思うが、以下、森さんの全文を引用させてもらう。当時、森有正の本はよく読まれた。私の兄の書棚にもあって借りて読んだ記憶がある。

『この間、あるフランスの若い女性が尋ねて来た。大学内のゴルフ場のレストランへ案内して話をした。緑に囲まれた食堂では、何人かの人々が静かに食事をしていた。生粋のパリ育ちのこの女性は数年間を日本で過ごしたのである。私たちはよも山の話をしていたが、やがて話は日本における生活、ことに東京の生活のことになった。どういう話のきっかけだったか忘れたが、というのはその時彼女が言ったことばに衝撃をうけて、何の話の中でそうなったのかよく記憶していない。彼女は急に頭をあげて、ほとんど一人言のように言った。《第三発目の原子爆弾はまた日本の上へ落ちると思います。》とっさのことで私はすぐには何も答えなかったが、しばらくしても私はその言葉を否定することができなかった。それは私自身第三発目が日本へ落ちるだろうと信じていたからではない。ただ、私は、このうら若き外人の女性が、何百、何千の外人が日本で暮らしていて感じていて口に出さないでいることを、口に出してしまったのだということがあまりのもはっきりわかったからである。彼女は政治的関心はなく、読書も趣味も友人も、ごく当たり前の娘さんである。まして人種的偏見なぞ皆無である。感じたままを衝動的に口に出しただけなのである』(講談社学術文庫・・思索と経験をめぐって 121p)

彼女が生きていれば70歳を超える年齢である。なぜ、森さんは咄嗟に彼女に反論をしなかったか、できなかったのか?

 

  1. 職場の同僚からの紹介で読んでみました。
    非常に興味深い内容です。
    3発目がどこから、どのような理由で飛んでくるとそのフランス女性が考えたのか。
    おそらく、語った当時は今の情勢は予想も出来なかったでしょうから、冷戦の状況下でのことかもしれません。
    パシフィズム外交政策が第二次世界大戦を招いたとの反省が欧州にあったので、日本に同じ芽があることを感じたのか・・。
    本日投稿された記事のようですので、楽しみにしています。

    • 書棚にあった10代末から20代前半に読んだ、1969年の世界的な学生運動の高まりの最中の森さんのエセイ
      ですね。当時は、この文章は全然記憶になかったので、読み返して私もびっくり驚きました。それで掲載したわけ
      ですが、森さんの唐突な文章なので、どういうわけでそうなるのか書かれていません。当時、パリも学生運動が
      盛んで、フランスから来た留学生も同じような雰囲気を吸っていたと思うのですが、日本の国内でこんな発言
      をした人はたぶんいないのではないかと思います。このフランスの女子留学生談、なぜ、森さん、深く聞かなかった
      のか?不思議でなりません。1970年11月記と書かれています。湯川秀樹さんが、日本への原爆投下を知っていた
      話も以前、書きましたのでそちらもお読みください。

  2. 世界でたった一つの「二度も核攻撃を受けた国ニッポン」。

    広島のあの日に僕の恩師は広島に住んでいたそうですが,夏休みを利用して列車で遠くの田舎に行っていたそうです。一瞬の閃光とともに広島の街は地獄と化してしまったそうです。市内にいれば命を亡くしていたのではないでしょうか。また僕の兄は海軍飛行兵でしたので長崎は諫早の基地に配属されていましたが,戦争も劣勢になり飛行機もほとんど無くなってベニヤ板でダミーを作って滑走路に並べたりしてカモフラージュをしていたそうですが,とうとう東北に移動させられて今度はベニヤのボートに爆弾を積み片道の燃料のみで米艦隊に体当たり作戦要員となったそうです。諫早にとどまっていれば長崎で被爆したのではないかと思います。終戦が兄の命を救ったのですが,終戦のきっけが核爆弾だったのは事実です。核を使用し大量殺りくを決断した米国を憎むか?終戦へと導いた米国に感謝すべきか?被爆者や死亡した方々のことを思えば複雑です。この二度の残酷な被ばく国の事実を,もっと世界に知らせるべきですね。太平洋上に核ミサイルが落下したとしても,遠洋漁業者の方々が第二福竜丸の二の舞にならないとも限りませんから「実験」では済まされないですね。最近,また不穏な動きが見られますが,間違いが無ければいいのですが。祈るしかできません。

    • 広島を離れていたのはラッキーでしたね。『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか』という毎日新聞記者の書いた
      本があって、どこの都市に落とすか検討会議のことも書かれています。京都も候補でした。当時、日本の理化学研究所
      が原爆の開発を進めていました。だから米軍が《連合軍が》日本に来て、最初にしたのが理化学研究所を壊すことでした。
      飛行機を作ることも禁止されました。軍事につながる開発的な要素を潰すことでした。それにしても、ここまでどこの
      国も核兵器を持つと、気の触れた人間にスイッチを持たせないことを祈るだけです。シリアでアサド政権がサリンを民間人
      に使用してました。それ以外に、生物化学兵器はたくさんあります。ペスト菌も含めて。

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