幸せを感じる人。
恥ずかしいテーマではあるが筆者の周りにいる人で幸せそうな人を挙げるとするとどんな人だろうという話である。抽象的な幸福観とかそういう話ではなくて、さらに「幸福とは何ぞや」と語り合うことでもなくて、筆者が直観的な勘で、第一印象でわかる人のことであるから主観的な偏見以外の何物でもない。あしからず。男でも女でも同じことだ。
男では出世欲の少ない人であるが、出世していく人。そして上司をも間違っていれば強烈な言葉で返せる人。金払いがよく、決して会社の経費で飲み食い代金の領収書を取らない。このあたりは部下はよく見ている。領収書を取るくらいなら割り勘がいい。なぜならその場にいない人のほうが多いからである。経費での飲み食いならだれにでもできる。私の送別会に某企業の部長と次長が私が夜の接待が嫌いなのを知っているから「三国シェフのフレンチ料理にしよう。あそこの5000円ランチを食べよう」と提案された。「交際費は残っている?」と部長。「たっぷり残ってますよ」と次長。交際費は第2の所得である。楽しい送別の宴ではなかった。領収書を取らなかった男は「役職手当は、部下のために使う金だ」と教えてくれた。人間の器は支払うときに出るものである。厳しい現実である。
ところで幸せを感じる女性の第一印象はと聞かれたら答えられない筆者である。情けないが。人当たりが柔らかい、笑顔がいい。家族関係、兄弟関係が良さそうだ。ひとりに強そうだ。自分の趣味を大切にして他人に強制しない。ヒステリーから遠い。JR電車で高校生のカップルの会話に驚いたことがある。丁寧できめの細かい会話をし続けていた。お互いの距離の取り方が抜群であった。大人でも少ないカップルの心地よい会話が聞けて幸せを感じた筆者であった。こう文字に書いても伝わらないとは思うが、相手の言葉一語一語を聞き逃さないよう黙って聞いて終わってから、同じくらいの分量の言葉を発する。それも小さな声で。話題は映画やドラマの主題についてであった。お互いが好意を持ち合っていることは一目でわかるが。
ここまで読まれて、筆者が感じる幸せな人は、いまの時代、ほとんどいない気がする。デリカシーのないことおびただしい世の中である。第一印象が幸せそうであっても次の瞬間、事件や事故で暗澹とした気分に陥るのも真実。そういう世の中であっても小さな子供がお母さんに抱っこされていたり、小さな手をお母さんとつないで歩くシーンは見るのが大好きな筆者である。幸福感に満たされる筆者である。せいぜい3歳までであるが。
故人に新年のご挨拶。
「明けましておめでとう!」。と、1月2日の義父の壮大な葬儀で、お棺に色紙に書いて入れた甥っ子がいた。彼の頭の中では亡くなったお爺さんだとしても、お正月の挨拶は欠かせなかったのでしょう。僕も負けじと「爺ちゃん、カッコ良かったよ!」と書いた色紙を入れた。みんなが沈んでいる葬儀に笑いが起きた。故人もきっと喜んでいたと思う。喪に伏して神妙にしているはずのお正月も明るく過ごせた幸せな想い出でした。
腑に落ちない割り勘。
勘定の時に払う癖は治らない。割り勘が一番良いのだろうが、つい払ってしまう。決して裕福ではないのだが見栄っ張りなのだろうか?。それとも相手が払う気持ちがあっても、つい自分が払ってしまうのは、せっかちなのかもしれない。ただ、割り勘だとしても、腑に落ちない酒宴は多々ある。飲み放題!食べ放題!と言う奴だ。自分は飲まないし、食も細いから、いずれにも属さない。こんな時は割り勘でも納得できない。美味い酒を少しと美味しいものを少しだけあれば幸せだと思うし、お腹いっぱいなど欲しいとは思わない。最近お腹が出っ張って来た事も理由の一つかも。
seto
ビール飲み放題で700円台ありますから、それだけで飲む人はいいかもしれません、2時間ですが。飲みすぎる人との
割り勘はキツイし、後味が良くない。払われるより払うほうが、自尊心キープできていいかもしれません。奢られるほうは
辛いかもしれません。胃袋が小さくなり、油ものは胸焼ける。