懺悔や告白
棺が閉まるまで持っていく秘密はどこかに漏れているという話である。殺人を犯して数年しても犯人は見つからず迷宮入りという犯罪もあるが、彼の生きている周辺の誰彼に「必ず、冗談を装いながら、遠回しでも人殺しを告白はしているものである」。そういう人をじっと辛抱強く待つ忍耐が必要だと名刑事が語る話があった。人間の弱さでもあり、「告白することですっきりする。肩の荷が下りる」ということでもある。そしてそれで許されるなら無罪放免になるかもしれない。
実際、カトリックの懺悔聴聞の習慣は小さな窓からヒソヒソと自分の行った罪を告白して、許しを請う。見えない神や天に向かって告白するより生身の人間・神の代理人である司教に語るほうが効果がある。キリスト教信者数を伸ばした背景にこの懺悔・告白の機能をつけたことにあるのではないかと米原万里「ガサネッタシモネッタ」に書かれてあった。日本の新興宗教にも実はこの告白する、他人には聞かせたくない悩みを告白して、それを共有することで「自分ひとりで悩まなくてもいい」という気にさせて信者を増やしている。
そいう意味でSNSも宗教に似ていなくもない。悪人やヤクザの世界で一番嫌われるのは、裏切りである。「誰のおかげで今の地位や収入があるのだ」と恫喝され続けて我慢していたが、嘘に嘘を言うことに疲れて、ある日「あの人は国民の税金を横領してそれをばらまいて、手下をたくさん作っているんです」と告白したらどうだろうか。睡眠を邪魔される悪夢の連続はきつい。ずるく儲けた人は、ずるく出世した人は、いずれそのツケをどこかで支払う・戻さなければいけない。そう信じたいものである。嗚呼。
聞き上手。
新興宗教に限らず、心療内科や精神科も同じですね。悩みを聞くことが治療につながりますが、医者の方が病気になりそうですね。懺悔も聞き過ぎた神の代理人の司教も大変ですね。近所のおばさんたちは根ほり葉ほり、他人様のプライベートに入り込むのが上手ですよ。自分の事は棚に上げて。司教は口外しないでしょうが、医者やおばさんたちは、どこかでばら撒いて、笑い話のネタとして発散しているのでしょうね。気をつけなくっちゃあ!。
川で洗濯するおばあさんには気をつけて。
墓場まで持って行く人はまだしも、墓を作る予定の無い僕などは持って行きようがありませんから、持ち続けなければならないでしょうね。重い荷物を背負ったままの三途の川は渡れるのでしょうか?いっそ川に流してしまった方が楽かも知れませんね。川下で洗濯お婆さんに拾われたら、さあ大変!世間中どころか地獄中に広がって、あの世でも肩身の狭い思いを強いられるかも知れませんね。
北の国から。
SNSは、正に懺悔か?告白か?独りごとのつぶやきか?クレーマーか?。少し違うのは、自己中心的なところですね。オレオレ、自分自分、とばかりに主張したがり屋がおおいですね。単なる連絡だけに使っている人もいますけどね。トランプ氏のツイッターは「脅し」ですね。「北の国から?」はツイッターでの返信は来ないようですが?なぜか世界中に彼らのやり取りは筒抜け状態ですね。返信がSNSではなく、ICBMなんてことにならなければ良いのですが。