映画「ハンナ・アーレント」。陳腐さと残虐さ同居。

ハンナアーレント

久しぶりに映画の話を。政治学者「ハンナ・アーレント」の映画だ。加藤周一のドキュメント「幽霊」という映画とともに気になっていた。「幽霊」は見たが、「ハンナ・アーレント」はDVDで一昨日鑑賞。ドイツの敗北が決まり連合国にアイヒマンは捕まるが、彼は偽名で収容所を脱走、1950年聖フランシスコ会の支援のもとイタリアから南米アルゼンチンへ逃げる(どうしてカトリックがナチスの逃亡を手伝ったのかは映画では不明)。

映画はイスラエル秘密警察(モサド)によってアイヒマンが捕獲されるところから始まる。ハンナアーレント(1906年~1975年)は、マ-ルブルグ大学時代マルチンハイデガーに師事したが、ナチスの台頭で1930年フランスへ移動、ユダヤ人ということでドイツに屈したフランスの「キャンプ」に入り、夫とともにアメリカへ亡命する。この戦争で台頭した全体主義と大衆社会について書いた「全体主義の起源」という名著もあるハンナはエルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴して、その記事を書く。「エルサレムのアイヒマン、悪の陳腐さについて」。世間を真っ二つに分けた(というより同じユダヤ人から猛烈な嫌悪を投げられる)文章を書く。このレポートでシオニストでエルサレムに住む家族同然の友人を失う場面が痛々しい。死の床で彼にそっぽを向かれる。

アイヒマンはユダヤ人にあれだけのことをしたのだから、その責任者としてのアイヒマンを、その悪を暴く批判(非難)する内容だと多くの読者は期待を持って読んだが、結果はそれどころかアイヒマンは陳腐な人間、上からの指示を正確に流す役人程度で、自分のしていることが、結果としてどこでどうなっているかということではなくて、自分の役割はここまで、後は知らない程度の人間だと。アイヒマン裁判(ガラスに囲まれての裁判)は実写が入れられて、彼自身の声が聴けて顔も見れる。

それより、キャンプ内で同じユダヤ人でありながら指導者としてナチスドイツに加担したユダヤ人の存在を暴いてしまったから、さあ大変。記事を掲載した「ニューヨーカー」へクレームの電話殺到、自宅へも山のような非難文が届けられる。唯一、秘書と夫、親友の精神科医が彼女を支える。大学はハンナへ大学を辞めるよう説得するもそれは拒否し、大講堂で学生や教員の前で熱弁を奮う。内容についてはご自分で見てね、感動します。

ユダヤ人でも自分が助かるなら平気でユダヤ人を売る人がいるし、ドイツ人でも聡明な人もいてナチズム抵抗運動をしてた人もいた(ゾフィーショル・インゲショルなどショル兄弟の有名な白バラ抵抗運動などだ)。ナチスに積極的に協力したフランス人も多かったし(フランスのビシー政府はナチスの傀儡、抵抗運動は作家アルベール・カミューなど絶対少数だった)。シャルル・ド・ゴールはロンドンに亡命政府を作って、敗戦後パリに戻ってきて英雄になっただけだ。

政治学者丸山昌男の論文にも、平凡などこにでもいる官吏としてのアイヒマンの内容が書かれてあったと記憶するが、どこだか思い出せない。東京裁判かニュルンベルグ裁判について書いてたあたりだと思うが。徹底的にどこから見てもその言動は悪という悪人がいて彼が大悪をするならわかりやすい。

しかし、平凡な人間が日常のルーティーンワークをしていて、結果としてそれが虐殺につながっている。上司の指示で間違いなく仕事をしているが結果として犯罪へつながる。そこに私の「良心」はない、良心を発揮すれば仕事は停滞してしまう。そういう問題がこの映画から見えてくる。VW問題もこれに近い。公害問題もそうであった。薬害エイズも。大きなシステムが悪を生むと言う、ハンナ・アーレントは大衆社会における悪の問題を真っ先に取り上げていたのだ。なかなか理解されにくい。なぜなら悪の温床は読者自身(大衆自身)の日常と行動を暴くからだ。

簡単な話、天下の悪法であってもそれを粛々と義務的に、自分の良心を殺して実行に移す民間企業も官僚・公務員たちも。「不満を言うなら、俺にではなくて、それを決めた議員(社長・役員)、その人を選んだ選挙人(会社)のせいで、私は自分のポジションで義務を果たしているだけ」ということだ。ナチスを選んだのは最も民主的な憲法を持ったワイマール共和国での選挙。ドイツ国民が選んだ。その党の方針を私は正直に遂行している。何が悪いと。民主主義の横には独裁主義が貼りついている。

ハンナ・アーレントの映画はそこまでの視野で描いているのかもしれない。私の深読みかもしれないが。ポスターにもあるように、喫煙シーンがたくさん出てくる、愛煙家必見の映画でもある。

「全体主義の起源」は分厚くて、本屋でいつも横目で見ながら「読まなくちゃなあ」と思っていて、未読。そして40年が過ぎた。映画を先に見てしまった。読んだら感想が変わるかもしれない。

 

 

  1. 人はどうして?群れたがるのだろう。

    アイヒマンの話は以前にも読んだし、義務的に大量虐殺を見ていた人間とも聞いている。自分の命の為なら他人の命を奪っても良いと割り切っていたのかどうかは知りませんが、他人を裁く前に、自分を裁くべきと思うのですが、もしもそうしたとしても、また代わりのアイヒマンが誕生するのでしょううね。根本に宗教の違いや人種差別が根強く、闘いと言う大義の元に排除(虐殺)が実行されたのでしょう。今も人種差別はどこの国でも見られ、敵対して事件やテロの原因となっているのを見れば、当時と少しも変わって居ない事に気づきますね。エルサレム問題も再燃して、宗教や民族間の争い事は増えるばかりです。居住国別に宗教や民族がハッキリ分かれていれば良いのかも知れませんが、交流が激しい現代には、さらに複雑な争いが生じる可能性を秘めているのではないでしょうか。思想も宗教も個人の自由ですが、そこには必ず扇動者が現れ、集団が出来、主義が統一され、個人の意見や行動までも規制されてしまうのでしょうね。人はどうして群れたがるのでしょうか?

  2. クリスマスの夜に想う。

    ナチスの件は、正論を述べても通用しない戦時中の話とばかり思っていましたが、正に現代の世界がそれに近づいている事に気づきました。これまで冷戦時代であっても、相手国やその同盟国に対して暴言での脅し合いや、中傷にも節度があったように思います。ところが最近の米朝の言動は自国のみならず、周辺国や世界全体に不安の波紋を広げています。過去の戦争について考えれば「口は災いの元」の通り、感情のもつれが原因と思われます。それだけ危険な情勢の中で、次の世代を担う今の絵若者たち、将来への夢を見る事が、果たしてできるのでしょうか。クリスマスの夜に思うのは、核ミサイルが飛び交い、挙句の果てには、ナチスの再来にならぬよう祈るばかりです。

  3. 匿名老人
    いつの世も上から命令されると、善悪の判断をしないで粛々と実行する官吏がいるということですね。
    自分の出世のためか、戦時中であれば命令を聞かないと処刑されるので、ロボットのように無感情で行動する
    ことになる。でもアイヒマンは高等教育を受けており少しでも人間の良心があれば、あそこまで徹底的に迫害しなかったと思います。間違いなくヒットラーと同じ考えの持ち主でしょう。日本では最近自衛隊の戦備の拡張がなされようとしています。善悪の判断なくその戦備を使いたがる自衛隊幹部がいると思いますが、良心的な国民の監視が必要です。

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