単なる向上心は害だよね!(三浦勇夫)

街場で精神科医を長年している三浦勇夫先生のご発言だ。思い返せば、ずいぶん私も小学校からがんばれがんばれと勉強や運動で、努力という言葉が標語として張られた教室に監禁されていたなあと思う。私はなんとか幼稚園(ルーテル教会)は退園できたし、大学も中退し、勤め先も結婚して4つを転々。妻は私がいつか蒸発して失踪するのではと危惧していたが、そんな度胸があるわけもなくて、平凡な人生を繰り返しているが「単なる向上心は害だよね」という三浦さんの言葉は深い。その前後の会話はこうだ。対談本で、相手は土屋賢二(哲学者)『人生 気のせい 人のせい』146p

 

土屋 でも ふつうは、『プライドとか誇りをもっているから人間は初めて向上していく、成長していける』こういう認識が一般的ですよね。これは問題だと思うんですけど、向上心は、どうなんですか?害になるんですか?

三浦 単なる向上心は害だよね。今の多くの人が『向上心をもつことは良いことだ』と教育されてきて、何の疑いももたずに『向上しなきゃいけない』と思っている。『今のままではいけない』『理想に近づかなきゃいけない』と。向上がすべて『現在の自分の否定』になっちゃってる。

土屋 そうそう、だいたい、向上しようと思っても、どうなれば向上したことになるのかが、そもそもわからない。かりにわかっても、たとえばダイエットみたいな簡単な目標でもたいてい達成できない。・・・・・・それよりは、プライドとか、自分のあるべき姿だとか、向上しなきゃとか、そういうことを考えないで、ただ、自分が今興味を持っていることをやるほうはまだマシじゃないんですかね。少なくとも人生が楽しい。

 

好きなこと・興味のあることをやっていて、結果、何かどえらいことになっているという話はよく聞く。向上心、向上心と呪文を自分にかけて、ストレスをかけて、無理して現在の自分を否定的に見過ぎ自れば罰の世界へ入る。それより好きなことを探そうという結論になっている。仕事が好きならそれはそれで打ち込めばいいし、モーレツに仕事をする人を二人は否定はしていないから誤解しないように。好きだからやっているので、意外にそういう人はストレスが少なく、かえって家庭に帰るほうがストレスになるという人もいるから人生面白いものである。家庭から逃げて、第2の家庭の職場へ逃げているともいえる。共稼ぎ主婦も育児や料理・洗濯より、職場の仕事が面白いよという女性も意外に多い気もするがどうだろう?

何でも好きなことをやってる人が最強である。ただし、それで食べていける、暮らしていけるという前提があっての話であるが・・・・。

  1. 仕事が好き?なのか?仕事の中の或る創作作業的な事や、外出先での対人関係の面白さなのか?それとも、忙中閑有りと、手を休めてボーっとしたり、趣味をかじったりと、兎に角、束縛されずに思い通りに行動できるのは最高ですね。ともすれば家庭から逃げていると思われがちですが、そうでは無く、家庭への思い入れは人並みに有っても、他の事で時間を費やすので、家庭で過ごす時間が自ずと少なくなると言う事でしょうか。それでいて、いくら足掻いても裕福にはなれない人生ですから、一言で言ってしまえば、単なる「器用貧乏」ですね。

    • 動き回るのがいいですよ。私も多動性動物と言われてますが、いっぽう好きな本にめぐり合うと動かなくなります。
      大好きな仕事に。職種についている人はきっと10%も世の中にいないでしょうね。仕方なくがほとんどですね。

  2. 人生いろいろ。

    好きこそ物の上手なれ。なんて言われますが、好きだから飽きずに続けられて、長年の結果が実るのでしょうね。人によっては、好きの対象が家庭や家族や子供だったり、一生勉強だったり、趣味だったり、スポーツだったり、宗教だったり、仕事だったり、と千差万別ですが、どれもこれも個人の自由ですから、批判したり、他人がとやかく言っても仕方がありませんね。夫々の人生がありますから充実していたか?それとも苦労ばかりと感じたか?つまらなかったか?は晩年にならなければ自分でも評価判断できませんね。

  3. 言われて、嫌々やるのは身に付きませんね。アメフトで反則プレーが取り沙汰されていますが、これがもし監督の命令だったとすれば、昔の軍隊にも等しいですね。華々しい表舞台に立ちたいがために他人を犠牲にする。それも再起不能にまで追い込んで向上したと思ったところで、恨みをかうだけで、周囲からは人格さえも否定されますね。向上心などと言うのは他人に見せたり、他人を犠牲にして巻き込んだりするものでは無く、自分自身が正しいと納得してやる事でしょうね。他人から強要されたり、他人を踏みつけ利用だけして頂点を目指す事では無いでしょう。

    • 日大の監督の人相がいけません。醜悪です。ミニ独裁者は別な空間や別な世界でも同じ振る舞いをしてみるといいですよ。通用するか
      どうか。そうしないと無くなりません。会社でも大学でも企業でも学会でも政治の世界でも国境を越えてもね。どこでも通じる人間に
      なりたいものです。踏みつける人間は過去に踏みつけられた厳しい体験があるか、踏みつけることに快感を味わってしまったかですね。

  4. お昼休みの使者

    言われてみればそうかも、と気付かされました・・・
    「現在の自分を否定」から努力に入りますと、土台がぐらぐらのまま積み重なって、いつか倒れてしまいそうです。「自分はよくがんばっているじゃない。ここが変われば、もっと良くなるけどね」というセルフイメージから始まりたいものです。

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