庭のバラがゴミに見えてくるときがある。
ウツギもそうだが20年前から植えてきたバラが約20本、多いときは30本を超えるツルバラやオールドローズや花名不明のバラが狭い庭に植えていた。しかし、手前の芝生もきれいに刈り取りをしないとバラが生きない。歩道側に突き出したバラは、うつぎの花と一緒に転がっている。風雨の後は、登校時、小学生がうつぎのピンクの花を拾っていくが、いなくなれば筆者はチリトリを持参してホウキで拾い集める日課である。
花は燃えるごみなので、市で決められたピンク色の袋に詰め込んで1週間で2回ある燃えるゴミの日に捨てる。『花はゴミである』、山の中の自然の中で育ち、花を咲かせ、人間に見られもせず、散って、様々な菌に消化されて土へ帰る。なまじガーデニングを始めると、咲いた時の嬉しさもあるだろうが、それ以上に落ちた花の処理仕事が増える。若い時なら体力もあって柔らかい北海道の日射を浴びてルンルンだろうけど、肉体仕事がつらい年齢にかかると、『花=ゴミ』と味気ない結論に達する。花弁の多過ぎるバラはたちが悪い。風で飛んで行って四方を汚す。
花は他人の庭の花を見るのに限る。街の花屋さんで匂いを嗅ぐのに限る。しかもバラは抵抗をする。30分もバラをいじっていると、どこかにバラの棘が刺さっていて取れにくい。きれい好きな妻が、現在乳がんの放射線治療をしているので、ハチに刺されたり直射日光はご法度。バラの手入れはアバウトな私の仕事になってしまった。嬉しいのはことしはアブラムシが少なく木作酢を噴霧する機会がなくひと手間省けていることだ。
ゴミといえば広島・岡山・愛媛の大豪雨で民家を押し流してたくさんの死者・行方不明を出した。たかが自分の庭の花をゴミだなんて言うのではなくて、どこかのグラウンドに集められた家庭から排出された家電・家具が何メートルも積みあがってる風景を見て、なんと甘いブログを書くのかと思う。35年前に石狩川の氾濫で実家が床上1メートルの被害くらいしか受けたことがないので、丸太が家を突き破り、裏山が家も人も押し流す光景を見て言葉が出ない。
被害を蒙った一軒一軒に最低3000万円くらいポント税金を与えられないのか?霞が関の官僚は各省から1000人、役人の身分を隠して作業衣と軍手、長靴を支給して1か月復興に働くことを義務付ける緊急立法ができないか?県や市に『被害状況の数字を示せ』ではなくて、自分たちも被災者の視点でたくさんの体験を重ねることで、それが法律や国の生き方に多少でも庶民に寄り添う癖ができる。そう思う。庭のバラの話からゴミへ、ゴミから被災ゴミ(被災者にとっては思い出の品であることは言うまでもない)。
昔の少年。
どこの町内にも凄いバラ屋敷はありますね。維持費だけでも大変の様ですね。最近通りかかったバラ屋敷は無残でした。芝生も雑草だらけで荒れていました。きっと家主の高齢化で手に負えなくなったのでしょう。それとも手入れをしていた方が亡くなられたのではと推測します。一方、我が家は樹木も伐採して、花もほとんどありません。親父の形見に本州から持ち帰ったアジサイの株も今では葉だけが茂って花さえ咲かなくなりました。毎朝ゴミを捨てに行けば、定年の方々が犬の散歩・いや?犬に散歩させられていますね。ペットも花と同じで、年老いてからは家族同然可愛いものですが、どこまで面倒を見れるかも心配ですね。犬や猫は飼い主に恩は着ているでしょうが、面倒は見てくれません。いずれも世話ができる範囲にとどめておかなければ花もペットも可哀そうですね。近所の80代のご老人は日曜大工が趣味ですが、今では、毎日毎日、材料や道具の整理をしています。作業小屋のガレージもすっきり片付いてきました。最近身体もしんどいのか歩きも遅くなりました。身の回りを綺麗に片づけているお手本のような人です。見習いたいですね。