自分の好みや趣味やお店や生き方や、たくさんの場面で決断をするときに『こだわり』を強く押し出す人が最近、多い。筆者にしてみれば『どっちでもいいじゃないの?』というレベルの話なのだが、特に食べ物やお店について多い気がする。

選ぶ店や商品が多くなるのに比例して『こだわる人』が多くなってる気もする。広告は必ず、同じカテゴリーの商品(お店)を差別化していかに自分の店や商品が美味しいか・すぐれているかを主張するので、いつのまにか消費者の大脳へ刷り込み(洗脳)を行ってる可能性があって、その刷り込みが、次の人へ(こだわり)を主張すると、また『あれはいいよね』と物真似会話(思考停止・感情・情緒停止)に移行してしまう。企業はそうして消費量を増やす戦略を立てる販売促進を行ってきたのである。口コミが最大の宣伝で、それで実は死者も出たのである。『あいつは赤だ!』で戦前は刑務所に入れられ獄死もいたし、関東大震災では『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマで朝鮮人が殺されたのである。

ジャンルは違うけれども、私が学生の頃も『あの本は凄いね。さすが吉本隆明だわ』と当時の必読書『言語にとって美とは何か』を話したものであるがさっぱり難しくて理解不能な本であった。知的な劣等感にさいなまれないよう、周りについていくのが大変であった。あれから45年経過しても、まだまだ人類の知的遺産を消化できない自分に苛立つ。『結局、自分は何も知らないまま、このまま死んでいくのか』と正直に思う。

そうであるから、若い人がアバウトでいいところを(未来に解決すればいい)断定的に言うのが気になる。まだまだ世の中は広いのにもったいない。『私はこう感じるんだけど、こう思うんだけど』と枕言葉を言ってから話せばいいのに『これはこうだ、あれはこうだ』と決めつけ言葉を話す。もったいない生き方である。本当に自分の検証で結論を得た話なのか、誰かの権威が裏にあって、それを信奉して話しているのか?それならその権威を出してみなさいとなると『ミシュラン』の星数であったり、信奉するタレントの言説であったり、夕方の地域テレビの紹介であったり、いわゆる味通の断定的な判断であったりする。

断定は、昔から宗教や政治や哲学の世界とも相似形である。汝○○をするべからずからはじまって、神や仏や世界や幸福や救いや、誰でもわかりやすい言葉で語るようにしている。世界全体が、社会全体が生きづらい世の中になってる背景に、単純さへの憧れ、早く結論をくれへの願望があるのかもしれない。国家のトップが丁寧な国語をしゃべらず、説明ができず、結論だけ、自分の言いたいことだけをSNSで発信する世の中は危険で、メディアは「権力者の断定的な発言はそれを電波に乗せない、活字にしない」ようにして欲しいものである。語彙の貧困は情緒の貧困や想像力の貧困、そして一番恐ろしい寛容さが不寛容へ転化する契機になるから気をつけたい。断定的な言葉はいずれ発話者自らに返ってきて、醜い顔をつくる。(現実はそうではないのだから、嘘の世界にまみれることになる)トップになってしまうのである。

  1. 好みも、こだわりも年齢とともに無くなってくるものなのですね。若い時にはファッションもカッコよく決めたくて自分好みのブランドスーツなど着ていましたが、或る時期、銀行の仕事で業務部に伺う機会が多かったのですが、当時は喫煙していた僕は銀行員の方々が安いタバコを吸っていたり、グレーのスーツを着て居たりするのを見るにつけ、好みやこだわり以前に組織内での暗黙のルールがある事に気づきました。上司より高級品はご法度だったのです。当然ながら彼らから見れば下請け業者の僕のスーツもタバコも歓迎されていなかったのです。その頃からスーツはグレーが円満に仕事ができるスタイルだと自分に言い聞かせたものでした。そんな一般社会の暗黙のルールや経済観念が、年齢とともに徐々に増え、スーツはぶら下がりで十分。靴も丈夫で長持ちを。時計は不用品。酒もタバコもやめて、食べ物も,特にこだわらなくなってきましたね。しかし、一つだけこだわっていると他人から見られているモノはクルマですが、これも実は仕事の為で、つまりは当時の銀行の得意先が、クルマのディーラーさんに変わった為なんですね。

    • 加齢とともに何事も淡白になります。美味しいものもわずかな量で十分。先日、1万円の時計を買いましたが、文字が
      小さくて日付が読めません。かっこうはいいのですが、機能的にはダメでした。ただ、年齢を加えるとお洒落と清潔だけは
      心がけないと惨めになります。近所のスーパーに行く時が一番緊張して、洋服選びをします。会社へはラフな格好で行きます。
      気持ちのバランスを取るためです。唯一の筆者のこだわりです。

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