思考の惰性・言語の惰性。
自分も含めて(思考回路)や(言葉遣い)を変更することは至難の業かもしれない。ある本を読んでいて、自分の大脳をぐりぐりさせる本に出会うと嬉しいのも、これまでの自分の思考回路に横槍を入れてくれたり、当たり前と思っていたことに(意義アリ)という文章に出会うのも本の楽しみである。どうして惰性的な思考回路ができるのか?「○○は何々だ」という小さなころからの親や教師や友達や好きな映像や本の中で流し込まれて、実際、その思考で行為をすると成功体験(周りがうなづく、褒められる)が重なって、それを疑うというメタ思考へジャンプできなくなる。
たとえば、生物学の本の中に『獲得形質は遺伝しない』という命題があるとする。受験勉強ではこれでいいらしい(最近の中高の生物学はどうなのか知らないが)、しかし『獲得形質は遺伝する』という文章に何度も出会うと、これまでの知識が覆されて軽いショックを受ける。そうなると、父親や母親も毎日の生き方や人生観も、少しましな選択をしていくかもしれない。育つ環境が子供に影響を与えるだけでなく、遺伝子の中で『忍耐』遺伝子、『寛容』遺伝子などが親から伝わると考えると、親自身が忍耐強く、他人に寛容に生きる選択が生まれてくる子供たちに、次世代に手渡す価値になると思うとどうだろうか?
『突然変異は遺伝する』がこれまでの生物学の王道を歩いてきたのに、なぜ、何がこういう思想を生んだのだろうか?獲得された形質がすべて遺伝の対象になるのかどうか?訓練で足が速くなる、鉄棒がうまくなる、プラモデルつくりが上手で細かい作業が好きだ、三国志が好きで誰よりも詳しく物語れる、車の安全運転ならだれにも負けない。こういう資質にはすでに自分の親や先祖の遺伝子が入っているのか(運動能力が高い人が先祖にいる、こつこつ職人仕事が好きな先祖もいるなど)?惰性の思考と惰性の言語にだけ安楽に寄りかかると、居心地の良さに思考は老けるだけ、月並みな言葉で終始する毎日になる。
そういえば、ある人が通勤するにしても、駅に行くのに、同じ道を通らないで別な道を通り、景色を変えると良いと言っていた。会う人も価値観の違う人に出会うとベターだというのもその類だ。五感の刺激を新鮮にできる日常の工夫であり、なぜそれが必要なのかは、『惰性の力』『月並みな力』『自分で考えない既成観念』に寄りかかる楽を選択してしまいがちな人の性を、ちょっと変えようという提案でもある。そして道を変えて歩くと思わぬ人に出会うことも多い。それが次の自分の人生を変えることになるかもしれない。小さな自分の意志的決断を積み重ねると面白い人生で終われるかもしれない。皆が同じ道を歩まないで、迷惑をかけないで違う道を選ぶ人が増えれば、多様性や工夫力、生きやすい社会に近づくかもしれない。