読書という行為はいつ誕生したか?第2回目。
読書という行為はいつ誕生したのか『第2回』
しかし、イリイチの見立ては、この読書主義は幕を閉じて、新しい本との関わり方、コミュニケーション、ポエム(詩の朗読)へと変わった。挿絵や解説書、マンガ本、表、囲み欄、グラフ、写真ほか他のメディアとの合成物などの関わり方である。ある意味、読書主義はカトリック教会や修道院、修道院の延長としての大学、インテリ層や官僚は既得の特権を保護するために各種の法律文書などで守られてきたが「古典的な印刷文化は束の間の現象だった」。科学者や人文科学者、聖職者など彼らを見ていると、行きつく先が読書主義(書物愛好)が圧倒的に多いのはそういうわけだ。
しかし、それも終わるとイリッチ。読書習慣に入るといつのまにか西欧社会で「読書を日常にする人々は、識字能力に欠けた人々の憧れれるべき対象となった。そしてそのために、文字の知識のない人々は、より優れた人々、すなわち文字の知識を有する人々から(無教育な人間)として必然的に卑しまれ、管理され、監督される立場に、みずからを貶めるのだった」(同書93p)そう考えると、私たちがつくった「学校」という制度は、イリッチの上の5行から考えると差別の温床そのものではないかとさえ見えてくる(取扱説明書を読むことまで含めて)。イリッチはヨーロッパを離れて、中南米の国へも渡り、教育現場を見ているからさまざまな文化・民族に触れてきて思うところがあったのである。→現代アメリカのトランプ政権を支持する層とマスメデイァの反トランプの言論にもこれは表れていると筆者は思うところである。
言葉は権力の代名詞に簡単になることは太古の昔からあったが、言葉を操る長老はそれを「善」や「公平さ」を実現する道具として使っていたのかもしれないと妄想する筆者である。中国では宦官の書記(記録を残せるインテリ)が疑似権力を握っていたかもしれない。
現代はどうか。それぞれ胸に手を当てて、テレビ・新聞・教授・政治家・官僚・教師たち・親たち・会社の上司・取引先の担当者・ブログの文章を書く人。自分の身の回りの人と自分自身を「教育や読書」などの観点から再点検してもいいような気がしてきた本であったが、難解であった。
さらに『読書体験は人を異邦人にする』という言葉もあるので、その辺をまた考えてみたい。読んでる時間は感情移入、書き手の論旨に沿って追うわけだから自分を棚に上げておかないと理解ができない。12世紀においては、聖書を読むことで修道士が神に近づくために修行であって、それは地面を離れて高い場所に自分を移す、高いところから現実を見ることにもつながる。果たしてそれだけの意味なのかどうか?ただ言えるのは、本を古今東西読み漁る人は、どこか異邦人っぽい感じはするということだけ。
お昼休みの使者
とても興味深い内容でした。始まりは1150年頃でありましたか、それが分かると人類は意外にも(?)千年ほどのスパンをかけて、技術や概念の革新が行われているのかと推測します。やはり識字能力というものは否応なく「階層」というものに結び付いてしまいますね。それは現在の文明が、知識の習得に「文字」を頼っていることを示唆する一例にもなりますね。すでに映像、音声、触覚が関わる媒体はどんどん進化していますが、「文字」を超えてしまう概念が産み出されたとき、いよいよ読書という行為は古臭い趣味という時代になるのでしょうか。
さて、主の「再点検」という言葉にはハッとさせられました。自慢げに言うわけではありませんが、私は公文書のような堅苦しい文章がとかく苦手です。なかなか読み進められないのです。やはりブログというものは面白くて、文章とは文字の羅列に過ぎないはずなのに、なぜか人間味を感じてしまうのは不思議であります。
seto
丁寧にお読みいただきあいがとうございます。みなさん、グーテンベルグの印刷術が読書の習慣、聖書を読む習慣(特にルターなど)の開始
と考えてますが、私から見ると、聖職者の階層固定に見えます。プロテスタントもカトリックも、さらに言えば、仏教もイスラム教も新興宗教
も(創価学会含めて)すべてです。なぜか?必ず『文字』がそこに立ちはだかるからです。『文字』を理解できるできないが、そこでの自分の
立ち位置を決めてしまう、差別を発生させる要因になっていないでしょうか?オウム真理教も内容は別にして出版に力を入れます。幸福の科学も。
なぜでしょうか?音声の言葉より、文字がいかに新しく人間間同志の差別を助長してきたのかという話です。『学校』はひょっとして、他人を
振り落す術を磨くところかもしれないと思ってます。イリッチの本はさらに『病院』の問題にも触れています。