観光客の哲学。
北海道は胆振東部地震とブラックアウト(こちらの人災が決定的)で失われた観光客で観光業が大変な事態になったが、長期のスパンで観光を考えるブログを2018年1月4日と4月2日に書いていたので再掲載します。この中のテーマは、単独でも敷衍して書きたいことがあるので、いずれ書きます。
観光客の哲学
人間は人間を好きではない。人間は社会をつくりたくない。(東浩紀)
そのあとのフレーズは「にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれも持ちたくないのだが、にもかかわらず公共性を持つ。」社会と交わりたくない、他人とも会話をしたくない、人間がそもそも嫌いな人々が社会にあふれている現実。別名「引きこもり」や「コミュ障害」と命名されているが、もともと近代民主主義の元祖J・ジャックルソー「社会契約論」の一般意思は常に正しく個人は共同体の意思に従うべきであるという考え方が200年以上にわたって流れている(そうでなければ法律には存在理由がないし官僚は必要ない)
しかし、現代、世界中で流れている思潮は「疲れた個人が国境を越えて漂流し」観光客として漫然と歩いている。それを後ろ押しする所得の増加、格安航空の普及もあるだろうが、実は「インバウンド」は世界の潮流で平成15年度で約12億人、日本では2015年で約2000万人である。21世紀は観光の時代になるかもしれないと東浩紀さんは言う。観光客の特性は、「無責任である」「偶然に行動する」「彼らの視線が我々の日常に向けられる」「ふまじめである」。そして価値観を「フラット化」(平坦にする)。フラット化する観光地の定番はショッピングモールとテーマパークである。同じ広告、同じブランド商品が並ぶ。しかし、これだけ大掛かりに人が移動をしているのに、その思想的な意味が語られてこなかったのはなぜかという東さんの問題提起をしている。「観光客の哲学」という本である。
たとえば、単なる札幌市電や汚いビルなど私なら撮影しないような被写体を撮影している観光客を見たことはないだろうか。その意外性を観察していると面白い。特に看板に面白いものがあればシメシメだ(動くカニは絶好の被写体である)。さっぽろ雪まつりは冬観光の白眉だが、しかし、札幌駅前に雪山を置いておけば、その広場で東南アジアの子供たちは嬉々として雪だるまづくりに精を出す。ホテルの前の汚い雪でも平気である。「自由さ」「奔放さ」「規則に縛られない感情の発露」が彼らに見られる。子供たちが新しい習慣を切り開く。
ここで表題の「人間は人間を好きではない」というフレーズを思い出してほしい。観光客は、その場その場で遊びを考え出す。生真面目な市民はそれを知らんぷりで通過する。世界中の観光地で大人や子供が「自由さ」「奔放さ」を表現している。観光客の数の把握も大事だが、彼らの行動や観念に入り込まないと地球を覆う「観光客の奔流」の本質をつかめないだろう。「観光客の哲学」を読み始めたばかりで、これから東さんがどう展開していくのか楽しみだ。「観光客」を「他人」とか「他者」と言い換えれば、明治以来の日本人論に近づくが、東さんは手垢にまみれた「他者」という日本語を使わないところがいい。これだけの観光客が自分の目の前を歩いている。考える素材が向こうからやってきているのである。思考を楽しめる大チャンスである。「観光客」という漢字で私たちが,既成の思い込みやイメージを勝手に連想していることがわかる。政治家より観光客が知らず知らずのうちに地上に平和を構築しているかもしれない。
「観光客は大衆である。労働者である、消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割は担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論をしない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして、国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない」。
流浪の民。
旅の恥はかき捨て。と言われるように知らない土地では日常の自分が隠していた部分をもさらけ出す事はありますね。僕は東京、育った田舎、そこから離れた町、大阪、北海道と移り住んでいますが、今、長く済んだ現在も、旅の途中だと思います。そして、これまで住んだ夫々の土地を拠点に、さらにウロウロと小さな旅も沢山しています。クルマだったり、汽車(SL)や電車だったり、船だったり、放浪癖は小さな時から自然に身についたのでしょうか、知らない土地や町に行く事は楽しいですね。もちろん独り旅ですが。しかし今の時代、携帯電話の普及で、どこに居ても日常を携帯しているような気分にもなりますね。つまり携帯電話の中に日常を詰め込んで帯同しているのです。一度、大雪のロープウエイで山頂に登ったと同時に携帯電話が鳴り、出たのですが電波が途切れて会話にならず、やむなく下山して架け直したなんて事がありました。せっかくきれいな紅葉を楽しんでいたのですが、現実に引き戻された瞬間でした。携帯電話など無かった時代には逃げ場所はクルマを積んだフェリーでした。そのうちフェリーや列車にも公衆電話など付いてしまい、逃げ場もまったく無くなりましたね。
seto
携帯電話はどこまでもONにしておくと追いかけてきます。非日常性の旅が台無しになることも考えられます。観光客で
奥さんを横に・家族を横にして仕事の話をしている男が多くいます。「ただいま旅をしています。○日に帰ります」とコメント
入れればいいのにと思いますね。機能があるんですから。人間には定年はありませんから、ときたま現実を回避する知恵を
身につけないと、どこまでも他人に追いかけられます。成長には孤独が必要です。一人旅は成長しますね、特に若いときのたび
ですね。目的のない旅が好きでした。
広告マン。
外国人観光客は、どこに行っても、わんさか居ますね。私たちは、きっと格好の獲物のように観察されているのでしょうね。写真やビデオに撮られたりして、せかせか歩く生の日本人の行動をお土産にされて居るのでしょうか。現在の私たちは、しかし果たして外来の彼ら彼女らの描いていた日本人像なのか?それとも全く違っているのか?自分たちの事も知りたいですね。まさか?今時ちょんまげに刀を差しているとは思っては居ないでしょうが、表向きな都会より、田舎の風景や風習や人々の暮らしのほうが、これからは観光資源になるのではないでしょうか。広告マンの僕としても、田舎の風景の中に突拍子も無い看板や不釣り合いな建物など建てて欲しくないですね。北海道は農業王国ですから、農地そのものが景観を作り出せますからね。
seto
日本の景色は、特に農村風景は、農民の手によってつくられました。段々畑なんかそうですね。草取りも機械はやって
くれません。私も草取りを何回か挑戦しましたが、腰を痛めてリタイアです。いずれ最先端業種は農業になるでしょう。
地震や災害で思うのは食べ物づくり、供給です。過疎の農村が一番、安定するかもしれない時代です。そしてそこが観光
資源でしょうね。規模の大小はあれ、日本中、世界の都市のショッピングはゾーン展開です。1軒1軒違うお店の集合体
がこれからの時代を先取りすると思います。人間が気持ち落ち着く場所でもあるかもしれませんね。