教養とか品って何?
あるテレビ局のシナリオライターWさん(彼は毎日新聞主催のドキュメンタリー大賞を取った人だ)と、時間があればコーヒーをすすりながら「教養っていったいなんだろうね」と議論をしていた。
大正教養主義、三木清みたいな自分の人格陶冶の話ではなくて、最近はほんとうに少なくなったけど、営業先にも品を感じる人が窓口にいたものだ。全道のNHK支局にイベントの後援をもらうために広報担当者と会って話をすると、NHKの職員には、半分公務員ではあるが、興味ある題材の勉強や研究をしている人が多かった。いずれ、関心の深い分野の番組を作る準備をしているのだ。夢を生き生きと語り出す人もいて好感を持てた。
しかしそれ以外のテレビ・新聞関係者・広告代理店には意外や少なかった。知識や金はあるけど教養や品がないのだ。強いてあげれば、朝日新聞の天声人語を一人で書き続けた深代淳郎さんタイプが私の教養人のモデルになっている。46歳で急性骨髄性白血病で亡くなったけど。知識や本が胃腸で消化されていた人だ。血肉になっている、それだから、振る舞いが自然だとかいろいろ指標はあるけどね。
絵描きとか書道家にも多い。手や指をたくさん使うと、大脳が細分化されて、細かな差異やニュアンスがわかる人間になるのかもしれないが、W氏さんとの教養論議は終わりそうもない。お互い、退職してからも「教養や品」について語り合えるのは貴重な知人だ。オーディオマニアでもあるので、筆者としてはそちらの方面にはついていけない。
ふたりで合点がいったことが一つだけあって「教養人はひとりのときに、その時間を何に使っているか、習慣として継続性のあることをしているかで形成されると。それが作家の長編を読むことだったり、音楽を聞いていたり、落語をかけていたり、落ち着く時間を・研究する時間をたくさん持っている人かもしれない」。そしていい顔を作る。いい顔をつくるためには充実したひとりの時間をたくさん持たなければダメだと断定しておこう。
いい顔の人にはまた品のあるいい顔の友人ができる。似たもの同士の輪ができる。なんだか抽象的な表現になったけど、わかる人にはわかるはず。それが見えにくい時代になってしまった。居酒屋からの帰りに交番の前を通ると、凶悪犯の人相書きと犯した犯罪が書かれ、写真も貼られていたが、なかなかハンサムな顔もあり、昔はいかにも凶悪犯という顔が「普通の顔」になってる。凶悪犯は凶悪犯の顔をして欲しいな・・・と強く思った。ならば、市民は魔手から逃れられる
坊主の孫。
教養どころか、悪い事を強要したり、させられたり、騙されたりの事件が多い世の中になりました。まだ幼少の頃には凶悪犯罪や麻薬に絡む事件などは遠いアメリカなど外国の事と思って居ましたが、我が国も次第に似た事件が多発し、今では世界中が危険地帯にさえ思えます。教養人ばかりなら、犯罪や戦争も起きないのでしょうが、今、世界の中でどれ程の教養人が存在しているのか統計など出れば良いのですが、線引きも難しい時代ですね。例えば、従来は教養人と思われていた教育者でさえ事件を起こして猥褻行為をしたり、贈収賄に手を染めたりと信頼性すら損なわれています。例え教育に携わる者と言えど、クルマの免許証所持者に課せられている安全運転技能やマナー講習や認知機能検査のような教養講習の義務化が必要かも知れませんね。結果によっては免許返納ですね。
seto
現代の教養人、未来予測までできる人はエマニエル・トッドでしょうか。現代は倫理が溶けている社会だと言います。倫理が子供時代食べた水あめのようにどろどろ。私は20代のときに哲学科倫理学を専攻しました。いまにして思えば、なぜたった私だけしかいない学科を選んだのか(東大出た先生3人)わかりませんが、誰も行かないところ、誰も選ばないところろいう昔からの私の習癖かもしれません。ともかく働きたくなかったので、そこから一番遠いところを選びました。隣は宗教学で女の子が一人だけ。語学出来ず、結果7年で退学しましたが、ここで私の担当教授が素晴らしかった。退学願を出しても「いつか戻ってくるかもしれない)とずっと机の引き出しに置いてました。ドイツ哲学者カントの研究者で「永遠の平和について」(岩波文庫)を翻訳していますが、おでんをごちそうになったりしました。コトバ少なく上品でしたね。落ちこぼれの私に親切でした。後年、カルチャーセンターの講師に私は先生を招聘しました。お礼をしたわけです。べたつかないけど、やることはやる。教養は人間関係において発揮されます。勘違いは知識をたくさん持っている人ではないことです、