無名であることのありがたさ。
先々月、午後6時ころ、札幌駅の自働ドアで札幌に帰ってきた詩人の池澤夏樹さんとすれ違った。偶然、私のカバンに彼の著書「終わりと始まり」(朝日文庫)を持っていたので瞬間的に「サイン!」などがひらめいたが、昔読んだ、オーソンウェルズが公園で休んでいるとき、紳士ならば見てみないふりをしてあげるのがマナーという話が浮かんで、止めた。池澤さんは、すぐにタクシー乗り場に向かっていった。
道を歩いていても、他人は誰も振り返られないありがたさに幸せを感じたことはないだろうか。それが普通の日常生活、自分の存在がたくさんの人に知られる窮屈さや不自由感は誰でも想像できる。昼休み、仲良しとランチに出かける人もいるが、ひとりで出かける女性にはホッとした顔が見えるときがある。それは、男同士でも、義理的な宴会が終わるとき、ようやく一人になれる喜びにも通じる。人間は社会的な生き物であるという物語もあくまで物語で、真実はひとりになりたいのだが、させてくれない生き物であるという仮説も成り立つかもしれない。この場合の社会的という意味は、共通の言語くらいな意味で、また家族を作ってしまったという程度で、たとえ家族をつくっても、夫婦や子供はそれぞれひとりの時間を大事にする習慣はその名残かもしれない。
何度かブログで書いたが、個人名の出てこない歴史を書こうとした人が江戸時代にいた。31歳で死去した大阪の富永仲基(なかもと)だ。昔の人は早熟だ。その意図するところはぼんやりではあるが、この年齢になるとわかってくる。歴史を内在的な連続性としてとらえる見方を提示している。個人の関与を低く見て、何か歴史を流れとしてみる。その流れに沿って決め事をしていくと思えば、個人の決断より、世間の深いところでの動きが大事になる。後の人は前の人の理論に付け加える有名な「加上の論理」だ。彼の論理を応用すれば、トランプ政権の誕生にあてはめて見ると、アメリカの世間の底流での動きが決定的な要因ではなかったかと見方を変えてみる。個人名で歴史を見過ぎているから歴史の流れの判断を誤るのである。「そうであって欲しいでは歴史にはならない」。
有名になって、最後は幸せな最後を迎える人って一握り。果たしてそれが本人の望んだ幸せかどうか不明である。それどころか、誰でも幸せな最後はないかもしれないと思うし(証明できないが)、最近は孤独死や孤立死に積極的な意味や見直しが出てきている。孤立死も理想の死に方だと。二人で住もうが三人だろうが死ぬのはお一人様でしかない。
かく言う私とはいえば、妻に先立たれれば、何をするか考えると心もとない。困ったものである。子どもにどんどん迷惑をかけてもいいよという人もいるし、子どもには迷惑をかけないで、「野垂れ死に」覚悟を説く人もいる。自分たちが親を看た様に、看られることだけは真実かもしれないが、そのときが来ないとなんとも判断できない。先月、畳を総入れ替えしたので、せめてこの部屋から焼き場に送って欲しいものである。
坊主の孫。
同僚と昼食に出かける事を辞めてもう2年余にもなる。つきあいとは言え、昼飯まで他人に左右されるのが嫌になったのと、何せメタボ気味になって外食の塩っぱくて脂っこいメニューを避けたい一心から、他人に合わせず、自分のサイクルに合わせ、好きな時間に好きなように食べる事にしたのです。考えてみれば、働くと言う事は、移動時間を除けば,殆ど他人と接している時間であって昼の休憩時間まで、一緒に行動しなくても良いのではないでしょうか。おまけに見栄を張れば食事代だってかさむわけで、本当はそれぞれが手弁当の方が良いと思う。一日の中で一人の時間、または自分の時間を持つ事は大切だと思う。
seto
ほんとうは、ひとりになりたい、その思いは結婚しようがしまいが関係ないことかもしれない・・・という私の説に近い
ですね。以前、『観光客の哲学』というブログでも同じようなことを書きました。それが選挙や野球になるとなんであんなに
人が集まるのでしょうか?ひとりにさせない仕掛けがどこかに隠れているのかもしれません。
昔の少年。
幸せと感じるのは、継続ではなく「一瞬。一瞬。」でしょうね。継続して幸せになろうと思っても現実はそうは行きませんね。何が起こるかも予測は不可能ですから、一瞬の幸福感を味わえるだけでも幸せな人間と言えるのではないでしょうか。しかし日常で、その一瞬を見逃しているにも関わらず、不幸だと思い込んでいる自分に気が付きますね。本当は、生命力が無くなった瞬間から人は継続して幸せになれるのかも知れませんね。
seto
早くボケルと幸せはすぐそこですね。頭が俊敏であることの不幸をつくづく感じてる私です。言葉なんか覚えるんじゃ
なかった。
ホランペッター。
ボケるとは?人聞きが悪いですが、実際に最近よく物忘れをするので「とうとう来たか?」と自問自答のこの頃です。先日は、スーパーマーケットで夜遅く買い物をして自動支払機の所で財布を置いたまでは良かったのですが、あとからあとから客が来るのでサッサと支払いを済ませ、買い物かごから持参のショッピング・バッグに品物を入れていると、見知らぬ中年男性にトントンと肩を叩かれ「財布忘れてますよ!」と。近くのレジ係も忙しいのか、自分の仕事で手一杯なのか?知らん顔でしたが、親切な他人が教えてくれました。もし、あのままボケたまま帰宅すれば、クレジットカードから銀行のキャッシュカードやら会員カードやポイントカード、会社に提出の立て替え領収書まで全て入っていますから大変でした。また、買い物に来て、肝心な品を買い忘れする事もありますね。昔の俳優や歌手などの人名はよく忘れますね。特に大事な人名でもないのですが。そのうち、どこかの窓口でキレて「オレを誰だと思ってんだ!・・・?誰だっけ?」って自分にならないように祈るばかりです。
seto
さきほども妻に言いたかったことを忘れて、2階から1階に行きましたが、2階に戻ってきました。財布だけは
気をつけてくださいね。覚えやすい名前と覚えづらい名前があるので困ります。覚えるいい方法はありませんか?
その方法を忘れてしまうともうオシマイですね。