徳島県鳴門市撫養(むや)町&ニセコ町。
私の父方の先祖が鳴門の渦潮が見える町から北海道に渡ってきたと聞いていたのでいつか訪ねてみたいものだと思う。父の葬儀の前日、葬儀委員長である町内会長から、父の母の氏名を聞いてきた。父の実家へ電話をしたら、ムヤと教えてくれた。実家の義兄から『撫養(むや)』という鳴門市の町の名前が由来だよと話してくれた。徳島では家系図もない家柄だが、北海道に渡ってきてからの家系図はできるかもしれないが、そもそも『北海道に渡らざるを得なくなった』ことを考えると、故郷を半分捨ててきているので詳しい家系図を作ってどうなるものでもない。全国各地から屯田兵として、北の守りでやってきた開拓団の末裔に私はいるわけだが、明治から大正、昭和、そして平成と年号をまたいで道民は暮らしてきた。
鳴門市撫養町では、石材を加工する仕事をしていたみたいで、父の弟が母との結婚記念品として深さ20センチくらいの石臼を持ってきてくれた。どこに引っ越すときでも父は『これは弟の形見だ』と運んできては、家の外に置いていた。暴風雨や大雪のときも自宅玄関の横で両親の新婚から亡くなるまで見守っていた石臼であった。年末には餅をついたり、その役割が終わると金魚鉢代わりに使っていたが、雨の日は石臼に水が溜まり、勢いあまって金魚は外に飛び出し死んでいた。私の姓は瀬戸内海の瀬戸である。父の母の姓を継いでいる。人は移住しても、移住先で元の文化や習慣を持ってくる。地名を踏襲したり、職業も移住した先で同じ職を始めたりするケースが多い。しかし、徳島から狩太(現ニセコ町)に入植した先祖たちは、ジャガイモ作りに精を出した。その畑を作るためにたくさんの原始の木々を倒して、根を掘り起こす甚大な労力と馬の力が必要であった。太い幹もノコギリで挽かないと倒せるものではない。先祖たちが飢えを回避するために畑作りを急いだのがわかる気がする。私が小学生のとき父の実家を訪ねたことがある。ジャガイモ畑の中に小山もあって広い農地で道産子という馬もいた。目の前が羊蹄山。湧き水が美味い。徳島県鳴門市撫養町から流れてきた末裔がこのブログを書いている。
*『北海道移住の軌跡』(中村英重著)の徳島県人の移住の説明を読むと、県内で吉野川の氾濫があったり、住めど暮らせぬ経済が背景にあって、あちこちで移住の説明会が開かれたり、移住を斡旋する業者も暗躍していた。『移住熱』が漂っていた徳島県であった。交通手段は船便で小樽と室蘭に到着した。徳島県人の移住地一覧では、明治30年に34戸が狩太(現ニセコ)に入っている。いつの時代も生きる場所を変更することはたくさんの別離を伴う。飛行機のない明治であればなおさらで、故郷との別れは、永遠の別れに感じただろうと思う。規模は違うが、日本人の南米移住やカリフォルニア移住も死に物狂いの旅でなかったか。アメリカではさらに日系人差別が加わった。
流浪の民。
屯田兵ではありませんが、僕も本州から北海道への移住組です。生まれは東京で育ちは福井、大阪から一旦は東京を目指しますが途中で北海道へと来てしまいました。当時の冬の最中1月下旬の青函連絡船は猛吹雪の暗闇に青森を出たのですが、この先に目指す札幌も知らない土地で不安がいっぱいでした。住まいも仕事も決まっていない無謀な計画でした。移住のきっかけは大阪での経験で人間のズルさや環境の悪さに嫌気がさしたのと、失恋もあって、これまでの友人や知人関係を断とうと考えたからです。船内で父に手紙を書いて船の郵便ポストに投函。「今札幌を目指しています。落ち着いたら連絡します」と。自分勝手なこんな行動は何度もしていますから親も大騒ぎはしません。第一、父親と似たような事をしているので彼から比べれば僕の行動など大した事では無いのです。初めは3か月くらい様子を見て京都辺りに戻ろうかと思っていたのですが、とうとう本籍さえも移して永住する事になりました。荒地の開墾こそありませんでしたが、多難な歳月も今では良い思い出ですね。それより何より自分を受け入れてくれた北海道に感謝していますね。
seto
良かったですね、というより若いときは周りからみて無謀に感じる行動を取ります。福井と京都は私は住んでもいいと思った土地でした。全国、鉄道で大学時代、ひとり旅をしていて(自分に合う町探し)福井の駅前に降りて、ここなんか合いそうと思ったものです。最初、本州企業で札幌転勤で左遷感覚で来ますが、3年4年たって本州へ戻ると必ず札幌時代を懐かしんで暇をみては遊びにきます。自然や食べ物、人の良さが残っているみたいです。
昔の少年。
若い頃、大阪に居て、土曜の夜、弁天ふ頭から船に乗って小松島港に往き、早朝のディーゼルの列車で徳島は阿波池田に行きました。目的は鳴門の渦潮を見たかったのでした。スケッチ道具は持って行ったものの、落ち着いて絵も描けませんでした。見ず知らずの方の家に泊めて貰って月曜の朝には大阪港から今度は池田市に行き、仕事に出ました。たった一日しか居なかった四国でしたが親切にしていただいた記憶が今も忘れられません。今度機会があればもう一度、鳴門に行きたいです。今では鳴門海峡に橋が出来たのですね。
seto
そうらしいのです。橋の下に渦潮が見えるとのこと。鳴門市の電話番号を調べましたが、石屋さんや個人で同じ姓の人がいなかったです。全員、移住してきたのかもしれません。手配師も暗躍していたそうです。船の中で病死する人もたくさんいて、北海道に着くまで大変な思いもしていて、メイフラワー号のアメリカ移住もそうだし、現代の難民(アフリカや中東、メキシコからアメリカほか)も命がけであることは変わりません。
広告マン。
坂本竜馬に代表されるように、四国の男は小柄ながら気骨がある。たしか「こつまなんきん」とか言って「山椒は小粒でもピリリッと辛い」と同じような意味合いらしいですが。確かに知っている人を思い起こせば、かつてお世話になった日産のディーラーさんの社長さんはメーカーから出向の方で、小柄でしたが社員たちはピリピリしていました。僕にはとても良くして頂いたので、社長さんを恐れていた社員さんと、社長さんの間に入って僕がクッション役をしていました。低迷していたディーラーさんのテコ入れに派遣されたのでしたが、短期間に見事に立ち直らせました。その頃の仕事は、楽しかったです。他にも四国出身の元同僚などもいますが、一見のんびりしているかに見えても、皆、芯は気骨のある人ばかりでしたね。ニセコ地方の開拓に四国の方々が多いとは知りませんでした。入植者のほとんどが山陰や北陸などと思っていました。開拓時代は余りにも気候の違いに苦労されたのでしょうね。
seto
仁木町も仁木何がしという徳島出身者ですよ。彼が団体をつれてきました。私の幼少期ですら、真冬、家に雪が入り、家の中の水がすべて氷が張ったのですから、明治や大正、昭和の初めはもっとひどかったと思います。自然は容赦ないです。
坊主の孫。
北海道から見れば、歌にも表現されるように温暖な瀬戸内が四国のイメージですが、毎年必ずやって来る台風の通り道ですね。それに四万十川など清流に恵まれた土地ですが、夏場の渇水も多い土地柄です。海に囲まれ漁業も果樹園なども盛んなのでしょうが自然の猛威に対する心の準備も半端では無いのでしょうね。そんな厳しい暮らしでありながら、お遍路さんで巡る四国八十八カ所などでは、地元の方々の親切な対応は有名ですね。そんな地元の人々の優しさが四国のイメージなのかも知れませんね。同じ海に囲まれて冬場の厳しい自然環境下の私たちの北海道も学ぶところは多いですね。
seto
ため池が多いのも渇水期が長いのでしょう。そこに台風と洪水、狭い土地ですから貧困が常態で、なんとか貧しさから逃れるには移住しかなかった。四国全体で北海道への移住熱が明治中期・後期に盛り上がっていました。夢をばらまく新聞記事や説明会が開かれてました。移住を商売にするために小樽や札幌、釧路に支店を置く会社も出てきて、希望職種別の移住リストも作ってます。