6月23日撮影、神戸・王子動物園

一日の時間で、相手から要望され、義務的なことをして過ごす時間を『受動的な時間』と考え、自分がしたいことを積極的に誰彼の指示があるわけではなく過ごす時間を『能動的な時間』と考えた場合、どんな割合になるのかとふと考えた。仕事が好きで好きでしょうがない人は別にして、仕事はどちらかといえば受動的な部類に入ると思う。(経営者は能動的でないと勤まらないが)。娯楽時間のテレビも局側から送られる電波、俗に言う電気紙芝居を受動的に見ている。家の仕事も妻から言われて重い腰を上げて動くから受動的なな振る舞いだ。寝る前に朗読CDを聞いたり、映画を見たりするが、考えてみるとこれも受動的に聞いているので能動的であるようでそうではない。CDやDVDを自分の趣味で選択するまでは能動的な時間経過だが、いざ鑑賞するとなると長い時間を受動的に過ごす。しかし、ああでもないこうでもないと批評精神が動き出すから多少は能動性があるとも言えるが、総じてまったく自分の自由意思で過ごす、誰からも干渉されず、思う存分過ごす時間が果たして自分にあるのかさえ疑問に思うこのごろだ。しかも、かく言う私も自由に過ごしなさいと突然言われて、何をしていいかわからないときもある(妻の長期入院や長旅で)。突然の空白が発生する時だ。意思は弱いし、体力もない私は格段の用事もないのに電話をしてみたり、メールで遊びを始めるのも空白の時間に発生する。空白は営業をしていて、訪ねる会社が枯渇したときも落ち着かない気分が出てくる。あれだけ憧れた自由になった時間なのに心理的に自由になってはいない、よけいに苦しい時間になり得るのだ。本来的な自由に人間は耐えられないのかとさえ思う。E・フロム『自由からの逃走』がこのテーマを扱っていたが、しかし、不自由ななかで、一瞬、自由な感慨に浸るときもあるのに気づいた。帰りの電車に腰掛けたとき、お客さんのところに行く途中の公園で子供たちの歓声を聞いた時など安堵と自由さと喜びが溢れてくる。知人に幼い子供が3人いてオーディオマニアであるが、ホッとする時間が、マイカーに乗って一人っきり、好きな音楽を大きな音で聞きながらドライブしているときが最高だと言っていたのを思い出した。きょうは『能動的な時間はどのくらいありますか』というテーマだが、せいぜい1~2時間、私たちは自由な世界に生きているという幻想の中で生きていて、息苦しさを味わいながら暮らしている。中国本土から来る観光客は政治的に不自由でも、あの伸びやかさや笑い声に自由社会の私たちより自由度の高さを感じるのは私だけだろうか?最近、誰と喋ってもつまらない思いをすることが多い。定型的な話しかできなくなっているのではと感ずる。それぞれが大脳にテレビやネットニュースで洗脳されてはいませんか?という怖さを感じる。これでは能動的な頭の働き、エンジンが駆動しないと思うのだが、操りやすい人にだけはならないよう毎日を心がける天邪鬼な私である。

  1. 仕事も立場で受動的か能動的か、いずれかに変わりますね。責任感の持ち方の違いや取り組み方にもよりでしょうね。しかし、仕事から離れてみれば能動的に動ける時間があるかと言われれば、殆んど無いに等しいですね。つまり、そんな時間をむしろ新聞や雑誌を読んだり、TVで映画や野球を視たりと、能動的な時間になりがちですね。

    • 仕事は麻薬を飲まされてる状態で、そこを離れて『退屈だ!退屈だ!』と呻いている男の多いこと!!!きょうは69歳の人と話すと、やはり『退屈病』を発症していて、奥さん、たまらず、日本ハムファイターズのボランティアに旦那名で勝手に応募して当選。きょうも球場で座席まで案内する係をしています。500円のクオカードと夕食の弁当があたるみたい。7回裏終わると帰ってOKだと言ってました。変化があっていい暮らしです。腰と膝がやられるみたいですよ。

  2. 無人島生活でもしない限り、能動的な時間は作れませんね。仮に過疎地だったにせよ、何かに頼ってしまいますからね。但し自然に対しては人や生き物は全て受動的でしかありませんね。受け入れるしか術が無いでしょう。

    • 自然には抵抗できません。逃げるしかありません。逃げるという能動性はありますが。鹿児島・熊本・宮崎も避難民が多く発生してます。私の実家も石狩川の大氾濫(500年ぶり?)で床上1メートルになり、両親がボートで避難しました。電化製品、壁、畳、台所など取り替えるのにお金がかかりました。全国からきた義捐金を分割して3万円いただきました。自然災害受けて、自宅復旧に全額、国が面倒を見れないのでしょうかね。ブログのテーマから外れますが。

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