人間はある年齢で逃げ切れない敵に会う。カラダに裏切られる。寿命だ。
SFテレビドラマ『ストレイン』。人間を襲いかかるストリゴイン(人食いゾンビ?)退治に活躍するセトラキアン教授が、最後の最後で吐く言葉。50年以上、ストリゴインのボス『マスター』を追いかけ、80歳を超えてさすがに疲れたのだ。『人間はある年齢で逃げ切れない敵に会う。カラダに裏切られるのだ。寿命だ。』(24巻目に出てくる科白)。この実感は加齢をしていかないとわかりにくいことで、60歳の還暦を過ぎるころから実感する。白い謎の液体を飲みながら元気回復の教授もカラダがついていかなくなる。敵との戦いに奮う銀の杖にも力がなくなる。逃げ切れない敵はある人にとっては死に至る病を併発することかもしれない。突然の他者の介入(交通事故や殺人・ウィルスなど)に見舞われなくても、自然物の人間はだんだん土へ向って進むものだ。『あらゆる自然物は、時間とともに成熟して、腐って、最後に死ぬ。そして次の世代が生まれてくる。この世代の繰り返しが、種が存続するということです』(平川克美21世紀の楕円幻想論 252p)。不思議な感覚なのですが、孫を授かってみてなんだかホッとした気分になったことを覚えています。娘が帝王切開でようやく生んだ女児を見て、娘もほっとしただろうが、見ていた私も次の次の世代を残すことができて、生き物(動物として種の保存に貢献できたというような・・不思議な感慨に襲われた)の使命を果たした(私が産んだわけではないのですが)ですね。次は自分の寿命になるわけです。男の場合、どういう死に方を子供に見せるかが大きな晩年のテーマになります(そう私は考えています)。父は夜中、トイレで脳梗塞・突然死でした。3年前に軽い脳梗塞を起こして脳外科への緊急検査入院を強く勧めても、天性の医者嫌いで近所の内科から薬をもらうだけ。父はどこかで死を覚悟していたように今でも思います。亡くなる前に部屋から青空を眺めて『きれいな青空だ』と母に言っていたそうです。満州や羊蹄山の青空と重なっていたのかもしれません。
坊主の孫。
田舎暮らしで、あれだけ鍛えられた身体のはずが、いつしか都会暮らしをしている内にすっかり鈍ってしまいました。移動はクルマ、階段なら3階が限界で息は上がるし、膝は痛むし。歳はとりたくないですね。我が家で野良から飼った愛猫のように、いつの日か誰も知らない場所へ、フッと消えたいですね。
昔の少年。
自分の死に顔は誰にも見せたくないですね。焼き場で骨も見せたくないですね。すっかり焼き切って灰にして土に還してくれればそれでいいのです。墓も要りません。
seto
覚悟ですね。死に顔はほんと見せたくないですが、こればっかりはどうしようもありません。壺に骨も要らないとなると全部灰ににするにはどうしたらいいのでしょうか?キリスト教ならそのまま埋めたほうがいいでしょうか?墓も要らないのですが入る納骨堂だけは準備してますが、東本願寺がしつこく息子を追跡して毎年の納骨堂の維持費請求をしてくるので、関係をどこかで絶ちたいですわ。