アイヌ共生空間を見学して。アイヌと出雲族
昔、NHKラジオか本で、出雲の地名をアイヌ語で解くと北海道での地名のようにすっきりわかるという話が筆者の頭の隅に残っていた。出雲地方に相当数のアイヌ(アイヌとはアイヌ語で「立派な人間」の意味)が暮らしていて、ひょっとして出雲大社にもかかわっている可能性や「古事記」を書かなければならなかった背景に、単に中国や朝鮮王朝という外の勢力の存在に自分たちの国創造物語をつくるのではなくて、アイヌを初めとした非ヤマトの勢力を排除するためにその正当性を証明する必要性があって作ったかもしれない。アイヌには書き文字はない。
出雲の神話の世界に実はアイヌの文化が深く刻まれているかもしれない・・・・。アイヌはその後、どんどん北上して東北や北海道へ移動して、和人(現日本人)に支配されたけど。ヨーロッパにおけるケルト人と重なる構造だ。(ケルト文様とアイヌの文様が似ている)阿部謹也さんや網野善彦さんが生きていたらどう表現するか。既に書いているかも。若いときに友人が書いた作文があって、以下、引用する。我々の知っている知識や常識は偏見の砂の上に立っているものが多い。
【アイヌとは】
北海道・サハリン(樺太)に住む先住民族。かつては東北地方などにも居住し、狩猟・漁労を主とする生活を営んでいた。近世以降、植民・同化政策により、人 口は激減。(集英社国語辞典より)
現代では、アイヌ人は東北から北にしか住んでいなかったかのようなイメージが あるが、もともとはもっと広範囲に分散して住んでいたと思われる。少なくとも、「縄文人」の中でもかなりのパーセントを占めていた民族には違いない。
> そのアイヌを、日本列島原住民の系列から意図的に外すかのような学説は、大和中心の歴史観、皇国史観による偏向ではないだろうか。最近では、大和朝廷が北へ北へと追いやっていった東北蝦夷は、現在のアイヌそのものであったとする説も有力になってきている。となれば、東北蝦夷の英雄・アテルイなども、アイヌ人だったのだろう。
> 大切なことは、表の日本史からアイヌ人の存在が不当に削除、抹殺されているこ とを知ることだ。アイヌと「その他の日本人」が存在しているとイメージするの は大きな誤りで、長い混血の歴史を遡れば、現日本人の誰もが、アイヌと同根の 古モンゴロイドの血を、多かれ少なかれ引いているはずだ。民族に純潔はない。
> *【出雲王朝 いずもおうちょう】*
> 古代出雲王朝というのは、かつては「架空の王朝」、あるいは、存在したとしてもちっぽけな王朝で、天孫族によりあっという間に滅ぼされた、という見方が主 流だった。しかし、1984年以降、出雲地域から大量の銅器が次々に発掘されると、にわかに古代史学界でも出雲王朝ブームが巻き起こる。現在では、弥生時代に出雲王朝が存在していたことを否定する学者のほうが少な いだろう。しかし、ここで、さらに一歩進めたイメージを展開してみることもできる。出雲といえば、一般的には現在の島根県周辺一帯をさすが、古代出雲王朝は、末期には現在の関西エリア(畿内)にまで及んでおり、中心地は畿内に移っていたのではないか。また、これだけ大規模な王朝、あるいは地域国家が形成されていたからには、出雲国を形成する人種も、すでに重層となっていたに違いない。
> 『あなたの先祖は「なに人」か?』(田中勝也+日本原住民史研究会、徳間書店刊、1986)には、次のような推理が記されている。
> *第一層:早期からの縄文人*
> ……アイヌおよび北方ツングース系諸部族。エコロジカルな精神風土を持つ勇敢 な人々。
> *第二層:やや遅れて渡来・土着した縄文人* ……中国大陸南部、朝鮮半島南部、インドネシア、沖縄、九州を結ぶ、環東シナ 海文化圏の諸部族。開放的でのんびりした精神風土を持つ人々。
> *第三層:縄文晩期から弥生初期にかけて渡来してきた初期弥生人* ……メソポタミアがルーツとも言われるが、穏和でインテリな大陸からの渡来人一族。日本の原住部族とは、対立をなるべく避けて融和策をとったと思われる。出雲王朝の指導者層を形成していたはずだが、結果的には後から入ってきた天孫族の列島征服の地ならしをさせられた形になった。
> 「出雲族」と呼ぶべき部族がいたとすれば、この3グループ、あるいは3グループの共同体を指すことになるだろう。大和朝廷形成期には、これら3つの層の人々はすでにかなりの度合いで混血し、共存していたと思われる。 大和朝廷が後世もずっと怖れていた「出雲の影」とは、この出雲王朝のエリート集団と、その末裔たちの影響力、巻き返し、復讐などのことだったのではないか。
*筆者感想:大和朝廷が恐れをなして「出雲族」を北へ北へ追いやっていったと考えられないだろうか?その中心は、もちろんアイヌだ。源義経がジンギスカンになったという高木彬光氏のSF時代劇より信憑性が高そうだ。その仕上げが坂上田村麻呂の征伐だと。京都アイヌや奈良にも薩摩にもアイヌの痕跡は残り、古い時代には琉球へも渡ったと考えると、架空の日本史になってしまうのか。
何気なく使っているアイヌ語:ラッコ、トナカイ、ハスカップ、エトピリカ(鳥)、シシャモ、ホッキ(貝)、ファッション誌(non-no)アイヌ語で花の意。
テキスタイル・デザイナー。
アイヌ民族の真実はこれまで語られなかったし、むしろ隠されてきたとも言えます。文字文化のない民族と言われて疎外さえされていた感もありますね。文字と言えば、元々は中国大陸から朝鮮半島などを経ての伝来ですから、文字文化を和人と結び付けるのも不可解ですね。日本列島には元々アイヌ民族など言語文化の原住民が居て、大陸からの移住民族が日本列島を次第に我が物にした説の方が正しそうですね。日本の神話に登場する神の姿、公家の姿、どれを見ても百済系のファッションそのものですね。また方言のイントネーションにも大陸系の言語に似たものが多いですね。北方民族なら寒冷地が故に厚手の布や毛皮なども衣類に取り入れるはずですからね。ファッションから見れば、縄文人も、もしかして大陸からの移住組なのかも知れませんよ。土器・陶器などの技術、やがては鉄器まで持つようになるわけですから。太古の昔は別として、アイヌ民族であっても刀剣類を所持していたはずで、大陸との交流は大昔から有ったのでしょうね。国境は有ったとしても、海に関しては経済的排他海域など存在しなかったわけですから、予測すら出来ないトラブルのリスクはあっても、自由交流・自由貿易だったのでしょうね。すなわち、人の交流は混血を産み、次第に純粋な人類など存在しなくなりますからね。日本人?って一体なんでしょうね。
seto
日本人の先祖のDNAは、ロシアバイカル湖畔の村だという人類学者がいます。そこから南下してきたという説です。民族で純粋はありません。あらゆるところで混血で割合が違うだけだと思えばすっきりします。アイヌ民族でもオホーツクやカラフトなどたくさんあって、アイヌ同士の戦争もあるのですよ。それはインカ帝国内部でも殺し合いがあったのと似ています。文字言語はなくても、欲望はありますからね。縄文人はたぶん、最古の列島民族で弥生人に殺されたかもしれません。弥生時代より長い期間、覆っていましたよ。中国や朝鮮から漢字や建築・芸術を学びましたから。以降、弥生人が稲作とともに北上、最後まで稲作を拒否したのが信州で、いまでも諏訪の大木を山から落とす行事がありますが、あれは縄文文化の名残です。マタギがたくさんいたのでしょう。縄文人と弥生人も混血が進みました。ネアンデルタール人とクロマニヨンもSEXして混血が進んでいます。SEXって大事ですね。混血には。
テキスタイル・デザイナー。
ケルト文様やペイズリー文様の勉強に書籍を入手しました。アイヌ文様にも興味があって勉強したいと思っています。私の夢の一つですが、各民族柄のコラボレーションによるテキスタイル・デザインを完成させたいと思っています。そして余裕があれば、小ロットでも捺染原反を完成させ、ファッションに取り入れたいと思っています。完成はいつになるか、途中で頓挫塩てしまうか?不明ですが。そんな夢を持っています。
seto
ケルト文化ですか。音楽でもエンヤのメロディー、懐かしい響きあります。恵庭の郷土博物館にテキスタイルで参考になる色彩のものありますよ。カリンバ遺跡から発掘されました。カリンバとはアイヌ語で桜だそうです。レンガ色の染料がつかわれていましたよ。暇をみていらしてください。22日から開館です。
昔の少年。
自然を相手に暮らすアイヌの人たちには、文字など要らない世界だったんですね。ゼスチュアで十分伝えていたのでしょう。聴力の弱い方々への手話通訳ならぬ、太古の昔から手話もコミュニケーション手段の一つだったのでしょう。小説家は居なかったでしょうが語り部は沢山存在していたのでしょう。踊りにしても身の回りの装飾品にしても描き残すのではなく言葉と実体験で直に伝えていたのですね。正に直伝ですね。
seto
踊りと語り部、いい時間を過ごしていましたね。人類史で現在、狩猟時代が見直されています。農業が出てきて、貧富の格差が出ましたから。定着集落の形成が、共同体を分業させて、富める者と貧しいものが分化してきたと言います。言葉の利用は、特権層を形成していきます。中国でも宦官やヨーロッパではラテン語使える教会の人たちです。日本史でもそういうところないですか?私、詳しくないので。現代でも文字を扱えるエリートって新聞やテレビで盛んに出て、ユーチューブでも書いたりしゃべったりしてますから、いつの時代も身分を形成している気がします。手話はその中で貴重な技術です。赤ん坊に「シー」と指を口に当てると静かにしなさいという合図だと認識するかもね。
坊主の孫。
仏教系の家系でしたから神道については余り理解していませんが、北陸の田舎では神仏共存でした。各家庭には神棚もあり立派な仏壇もありました。毎朝双方に祈っていました。祭りごとも多く、子供時代にはよく手伝いました。そんな時代にアイヌ民族の事は全く聞かされても居なかったし、知りませんでした。勿論、学校でも教えていなかったですね。
seto
神仏共存ですね。私の家は次男と次女の両親で神棚も仏壇もなく、通ったのがルーテル教会とまったくどこの国に生まれたやらの家風でした。手を合わせることも知らず、非礼な日々を送ってきました。何事をするにも宗教関係は苦手で緊張します。キリスト教が親しみを持ちますが、あの残酷な一神教ですから好きにはなれません。複雑。