ブログで「ニュースが何もない日」を書いたことがある。自分自身や家族や両親、親戚、友人たちに異変が起きたら、それこそ大きな事件で大変だということはわかる。メディアが全世界にネットを広げていて、毎日毎日事件やニュースが次々起きるものだと感心するし、それを追いかける自分を自嘲することさえある。そんなことより、大事な日常の単調な暮らしを送るため、自分の足の具合であったり、財布の状態であったり、妻子の健康であったりする。貨幣が発明される前は、きっと食べ物確保と家族の健康、天候の具合、部落の一族の安定と長老と子供を大事にする習慣の維持であったろうと想像する。

事故で子どもを突然失った親が語るのは「もとの日常生活に戻りたい。子どもを返してくれ」であることは、習慣や日常感覚がいかに人それぞれの肉体に深く食い込んでいることかわかるというものだ。あたり前の人や物が無くなると「衝撃」が走る。穏やかな今日が終わったら、明日もきっと事件のない静かな一日でありますようにと祈りたいが、そうはいかない。突然、父の急死の電話があったり、銀行の倒産ニュースであったりする。事件は向こうからやってくる。求めなくても訪れる。そして大方、いいニュースは少ないものだ。しかし、日常の多くは多くの人の裏方仕事で支えられている。道路にゴミの散乱もなく、家庭のプラゴミと生ごみ、燃える紙ごみを決められた曜日に持っていく仕事、水や水道や電気のインフラを維持している人、事故なく電車を走らせている人たち、大雪の日、道をつけている人たちなど数え上げたらキリのない人たちに支えられていることに気づく。

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