教える毒・・・という言葉。
教える毒・・・という言葉
物事には必ず利と毒が背中合わせという考え方がある。人間の行為もそうで、深く入れば(利益を多く得られれば得られるほどその毒も多いということになる)、その反動で強く拒否されたり、相手を大いに傷つけたりするものだ。スポンサーと広告会社の関係でもよくあった。「もう来なくていい!」。
私が子どもの頃、先生は偉いもんだという観念が浸透していて、教員の不祥事は異常に少なかったと思う。それがいつのまにやら、スキャンダル多い業界になってしまった。お寺の坊さんも殺人まで犯すようになってる時代。共通は「いいことを教え続ける」人間の限界を示している気もするのだ。いいことって何か?というと、いわゆる正しいこと。正しいことって何?と聞かれたら、いいことなんだと堂々巡り。どうして通夜での坊さんの説教はわざと、重々しく儀式ばって、あたかも人生を全部わかったような科白を早くも30代から喋るのだろうか。目が嘘をついている。
「物知りのフリをしなければならない、聖人に近いフリをしなければ檀家から離れられる」。しかし、教えたり、説教するのが仕事だから逃げるわけにはいかない。そこで暮らしの糧を得ている譯でローンや自分の子供の教育費を払わないといけない。
他人に教える癖は、自分の生き方(生きる空間)を狭める働きをするのかもしれない。どこへいっても「教える位置に立たないと」情緒が不安定になる。親戚に教員が多い筆者なので、結婚したてのころ、正月に妻の実家に集まると、私は民間企業の営業マンという彼らからみたら特異な職業で、いつも座持ちをしていた。少しは冗談でも言って場を和ませ、周りに気を遣ってくださいよと不満があったのでつい書いてしまったが現実はそうだった。
何か話題になると「知ったかぶり競争」になる世代だから、教師が4人集まるとどこまで本当のことなのか調べようもないが、私に「教員のスキャンダルをいちいち出していたら、校長の首がいくつあっても足りないよ。教員と子供の奥さんとの不倫は多いよ」と問題発言も出てきた(アナ恐ろしや)。「たまたま運悪く発覚したから新聞・テレビに載る」のだとも。
高校を出て、はじめて道警の本部勤務になった叔父の子供は父親に「お父さん、具体的には言えないけど、道警の中はヒドイ」と。「腐っている」と。ピストルを所持しているから自らに発砲しなければいいけどもと叔父は心配していた。自衛隊員の自殺も多い。「要はフリをする、しなければいけない、生きる空間が狭い」職業は、利もあるが毒も全身を覆っていて、趣味に没頭して解毒しようと(忘れようと)する人も多く油絵・写真などはプロはだしだ。
教えたり、模範行為をしたり、お手本になったり、バカを演じられない職業は、その毒をどこに放出するか?人間はバランスを取って生きる生物のはずで、「教える毒の被害者は足元の家族、子供たちである場合がけっこう多い」。私の経験値から、母親の見栄の犠牲になっている子供も多いのである。
参考 吉本隆明「真贋」(講談社)
昔の少年B。
教える立場の人たちは職業病で、どんな所でも上から目線ですね。普段の相手が子供たちだったとすれば、言葉使いも、親達がするように、ややもすると命令形に近くなりがちですね。親戚にも女性の元教頭がいますが、仕切りすぎるので嫌われています。ただ、あんなに元気だったのに、退職後急に病気になってしまいました。病気でも口だけは今でも達者ですがね。
seto
新聞社に勤めて川崎の中学教師になる人もいます。社会人を複数一遍にいれるのでう。天職な人ならいいですが。私の自宅に妻の姉が50人近い小学生の勉強教えていました。私の子ども二人は無料(場所貸し)、書道も妻の次女が来て20人、私の子どもは無料。縦社会の順番順守が座る席から発言する順番まで戦争後も続いて現在に。
坊主の孫。
毒ばかり吐いていると、他人様も病気にしますが、その内に自分の猛毒に自身もやられてしまいますね。私達も他人事と思わずに、気を付けたいものです。
seto
自分の毒を吐いているようなものですね、