コロナ記事で埋め尽くされて、疲れてきたので一息つきたい。

小学校を3つ変わっているので転校には慣れている私だが、別れは悲しいもので、校長室へ転校の挨拶に行った帰り、私はよく泣いた。妹は気丈で私はメソメソだった。6年生になって札幌市立N小学校に転校した。札幌一のマンモス校で1クラス50人以上。1学年10クラスあるから6年生までで3000人は優に超えた。私を含めて4月の入学式後、6年2組に転校生3人が紹介され,黒板前に私も並んだ。

一人は函館から来た蓄膿気味の、少し緑色の鼻汁が見える勝田君だ。もう一人は鎌倉から来た男の子で名前は忘れた。道産子の会話のイントネーションは語尾が下がって終わるが、彼は『・・・じゃん』と語尾音を上げる。教室の中で鎌倉弁だと口々に言い合い、語尾を上げる話し方がしばらく流行した。真っ白いとっくりセーターを着てお洒落なハイソな雰囲気が漂い、とにかく女の子に抜群にモテた。お父さんは新幹線に関わる国鉄マンであったらしい。『さすがお坊ちゃんだね』と納得の男の子であった。そして私である。背がちんちくりん、恥ずかしかってもぞもぞ発言。目立たない地味でおとなしい転校生だ。函館から来た勝田君は、水泳の日に25メートルプールをクロール、バタフライ、平泳ぎで抜群の速さでゴール。一気に存在感を増して人気者になった。鎌倉のとっくりセーター君の人気はクラスを超えてアイドル的になった。

1クラスが50人もいると転校生は何かの特性がないと目立たないものである。私は勉強も抜群にできるというわけでもなかったし、体育は苦手。特性のない転校生であった。面白いのは、新しくクラスに入ってきた子にお節介とちょっかいを出す生徒が必ずいることで、私にもM君が接近してきた。『どこから来た、兄弟は、お父さんの仕事は、どこに住んでいる』と矢継ぎ早に聞いて来る。構ってくれるのは、クラスに慣れるためにありがたいのだが、けっこううるさい。M君は高校を出て地元のデパートに就職、婦人服売り場で下着を盗んで免職、次はどこにいたのか知らないが、中学のクラス会で再会。離婚して15歳年下の女性と再婚、子供をもうけて現在タクシーに乗っていた。『いいなあ、15歳も年下と暮らせて!夜も楽しいだろうな』と男ども。『何、言ってるの。それはそれで大変なんだ、子供も小さくて死ぬまで働かないといけないんだ』。ガンバレM君。

先週、真っ白いとっくりセーターが欲しくてユニクロに行くとLサイズがあって買ってきた。鎌倉から来たお坊っちゃんの影響かもしれない。成績の話でいくと当時は絶対評価で90点以上取れば全員5の評価で、中学に入るとオール5が10人はいた。次の年からSSという偏差値が導入された。子供たちが文部省の役人たちにもてあそばれてるように感じたものである。偏差値は止めて絶対評価に戻したほうが子供の精神衛生上、いい結果を生むと思う。ユーモアがあって下を向かないで良く笑う子供が増えますように。

  1. 子供がバカだと叱る前に、過去の自分の同世代の事を思い出せば、何と同じ事をしているものですね。誰の世話にもならずに一人で大きく成ったように振る舞っていますが、実は家族やら周囲の人たちには大変な迷惑を掛けていたのだと今になって分かります。子は親を見て育つと言いますが、知らず知らずの内に、まるで自分のコピーのような子供たちに気づくものです。そもそも、自分自身も親の影響を受けていて同じような事をしている事にも気づきますね。田舎の学校では結構いじめられました。原因は言葉の違いでしたね。両親が東京弁でしたから、その影響で他の子たちと少し違うイントネーションだったようですね。今になって考えればどうでも良い些細なことでしたね。

    • 私の工場労働者の街でしたから、鎌倉弁(?)にはクラス全体、感動を、真似をしてました。彼はヒョイヒョイと生きてすぐに転校していきました。娘を見ていても都合が悪くなるとはぐらかしなどは私の性格そっくりだと妻は言います。亡き母と孫の娘も『テキトーなところ』も似ていると言われます。続くんでしょうね、こういうコピーは。なんかいいことが続いているといいのでしょうが。探してみます。

  2. 小学校では、金持ちの子と、どこかの学校の教頭の子が特に目立っていましたね。前者はボス的な存在で仕切って居ました。後者は頭脳明晰で成績もトップでしたからクラス内でも尊敬されていました。小学校でも貧富の格差がありありでした。その違いは写生大会などでも見られました。絵の具のチューブから画用紙に直に絵の具を絞り出して指で延ばして絵を仕上げる大胆な金持ちの子。一方、自分はパレットに少量の絵の具を置いて水で延ばして画用紙に薄く塗っていました。勿体ないからです。もちろん大胆な絵の具使いの作品は評価も高く、彼は鼻高々でしたが、一方、シャバシャバ絵の具で描いた私の水彩画も結構高い評価を得て?何故か賞状を何度も貰いました。そんな格差の中でも高い評価をされた事で卑屈にもならず過ごせたのではないかと、今になって思います。

    • 札幌東区は全体で貧しい地域だったので、数人がお金持ち程度でした。普段着にそれは現れました。新品のセーターや登校着を着てくると目立ちますからね。考えてみると小学校って人間形成で一番大事なところを家庭でも学校でも友人関係でも、その後の原型を作っていると思いませんか?私は転校を小学校で3回してるので、浅い付き合い名人かもしれません。

  3. 中学の時には、一学年4クラス程度の学校でしたが、言葉も交わせない好きな下級生の女子も居たりして、登校は楽しかったですね。そんな訳で、家庭は貧乏でもお洒落には気を使っていました。先ず他の生徒たちと同じにならないように、ツバが短く、少し腰の高い学生帽に白いカバーを掛けていました。靴は真っ白いバスケットシューズで自転車は荷台を外して自分でグリーンに塗り替えて通学していました。帽子も靴も東京の姉にお願いして東京仕様のものを買って貰ったものです。そして通学時間も成るべく遅くギリギリで滑り込むのでした。自転車を飛ばして始業ベルが鳴る寸前に自転車置き場に到着すると二階の教室の窓からクラスメイト達がはやした立てます。「セーフ!セーフ!」と。おかげで学校でも目立つ変な人気者になりました。

    • そのころからイベントをしていたのですね。私も学校は好きでした。中学は3年間放送部で朝のクラシックを学校全体に流していました。朝の体育館での朝礼にはマイクを設置すれば放送室で隠れていられる特権を享受してました。きれいな女性がいましたが、とてもとても恥ずかしくて思春期は言葉をかけること・手紙を書くこと、できませんでした。おとなしい青春でしたね。心の中は騒いでいたのでしょうが。

  4. 奇遇ですね。私も放送部でした。昼食時間にはベートーベン「運命」を掛けました。ほんのジョークのつもりでしたが?どれだけの生徒が気づいたかは不明です。「ジャジャジャジャ~ン!」のイントロの直後にマイクに向かってこう言います。「うんめ~は扉をたたく!」と。ベントーベント弁当。美味いと運命を掛けたのでしたが?

  5. 中学では美術部に所属しました。理由は顧問の大学出たて?のヘップバーン風のショートカットが似合っていた若い地理担当の女先生が綺麗で可愛かったからです。列車に乗って一緒にスケッチに遠出するのはピクニック気分でした。絵も上手でセンスの良い先生でした。地理の時間と部活の時間と二度も会えるので幸せでした。地理の時間には、授業の初めに必ず20分ほど朗読をしながら机の間をゆっくり歩いて回ります。書物を持つ右手の肘を左手で支える姿がカッコよかったです。美術の時間はもっと接近していますから更に楽しかったです。そして夏休み前に先生から指名されて県主催の統計図表コンクール募集の大型ポスターの制作作業をしました。もちろん先生も休み返上してアドバイスをくれました。テーマは当時地元で工事中だった「北陸トンネル完成後の流通の進化」でした。そして楽しい夏休みも終わり、或る秋の日の朝礼で、いきなり壇上の校長から名前を呼ばれ統計図表コンクールの表彰状と記念品を貰いました。壇上から降りる時に全校生徒の視線を一身に感じて赤面すると同時に踏み外しそうになり笑いを誘い、少しリラックスしました。その後、表彰状は額に入れられて廊下に飾られる事になりました。勉強はさほど褒められる事もありませんでしたが、これだけは自分でも驚きました。

    • やはり美術の才能が昔からあったのですね。そこに美人の教師がいたとなると辞められませんね。うらやましい。中学時代、美人の教師はいたのですが音楽の教師で妊娠していましたからね。近くにくるとぼっと上がってしまいます、いい時代でしたね。

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