寺田寅彦『夏目漱石先生の追憶』
河出書房 道の手帖 『寺田寅彦』いまを照らす科学者のことば (池内了責任編集)188pに寺田寅彦のこんな言葉があった。夏目漱石先生の追憶。49歳という短い生涯であった夏目漱石。その思い出を語る1節。『自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば、自分にとっては、先生が俳句がうまかろうがまずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった、いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もない、ただの学校の先生であってくれたほうがよかったのではないかというような気がするくらいである。先生が大文豪にならなかったら、少なくとももっと長生きされたであろうという気がするのである』。寺田寅彦も1935年(昭和10年)58歳で亡くなる。寺田寅彦が亡くなると、今度は雪の結晶を研究した中谷宇吉郎が『指導者としての先生の半面』(同著119p)で『先生を失って弟子たちは何をする張合いも無くなる、その様な意味での指導ができたのは勿論先生の比類なき頭脳の力によるものであるが、今一つ先生の心の温かみというものが非常に重大な役割をしていると思われるのである。・・・・・誰かの行為に対して非難がましい話をする様なことが先生の耳に入るとよく先生は〈相手の人の身にもなって考えなくちゃ〉と言われたものであった』。先生と弟子の関係が、感情面からよく見える。
天災は忘れてころにやってくる(寺田寅彦):中谷宇吉郎が寺田の言葉を要約したとされる言葉。
坊主の孫。
偉人と言われた人達にも、その志を学び後輩に伝承した人達が居た師弟関係は、一部のジャンルを除いて、今では希薄になりましたね。弟子入りなどと言う言葉さえ過去のものになって居ます。皆それぞれが自分一人で育ち、学び、成長したかの様に思いがちですが、その陰には、必ず親族や大勢の協力者や指導者とも言える人たちが居るはずですね。また天才は生まれ持っての才能の持ち主と思いがちですが、天才とは99%の努力と1%の才能だと言う人も居ます。我々の様に、苦労だとか努力だとか思った時点で、既に凡人なのでしょうね。努力も苦労も他人には気付かせない位に一つの事をなし遂げる天才も、忘れた頃に誕生するのかも知れませんね。そして語らずとも後世に継承して行くのでしょうね。
seto
なんでも個人、個人って言葉がひとり歩きする世の中になって、昔は電話が玄関に1台置かれた家庭、テレビが入っても居間に1台、子供部屋は夢のまた夢の時代を知ってるので、自分に向き合い過ぎて息苦しい社会や自分になってるかもしれません。他人と自然に向き合えず、閉じこもったり。師弟関係っていつまでも残りますね。知らないうちに栄養になってます。いわゆる越えられない偉い人です。ここで書かれているのは<長生きしてほしかった>という寺田寅彦の心情ですね、何にも要らない、そのまま先生であり続けて、小説など書かずに生きていて欲しかったとね。英国留学中、ノイローゼにもなってましたし。
seto
なんでも個人、個人って言葉がひとり歩きする世の中になって、昔は電話が玄関に1台置かれた家庭、テレビが入っても居間に1台、子供部屋は夢のまた夢の時代を知ってるので、自分に向き合い過ぎて息苦しい社会や自分になってるかもしれません。他人と自然に向き合えず、閉じこもったり。師弟関係っていつまでも残りますね。知らないうちに栄養になってます。いわゆる越えられない偉い人です。ここで書かれているのは<長生きしてほしかった>という寺田寅彦の心情ですね、何にも要らない、そのまま先生であり続けて、小説など書かずに生きていて欲しかったとね。英国留学中、ノイローゼにもなってましたし。